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【パロディ】夢十夜(第十四夜)

   第十四夜

 広い土間の真中に将棋盤を据えて、その周囲に駒台が置いてある。台は七寸盤で黄金色に光っている。片隅には棋書を前に置いて爺さんが一人で駒を並べている。戦型は矢倉らしい。
 爺さんは興奮しているのかなかなか赤くなっている。その上顔中つやつやして皺と云うほどのものはどこにも見当らない。ただ白い髯をありたけ生やしているから年寄と云う事だけはわかる。自分は子供ながら、この爺さんはだれなんだろうと思った。ところへ裏の筧から戻ってきた羽生さんが、寝癖を直しながら、
「御爺さんはだれかね」と聞いた。爺さんはぱちんと歩を前に進めて、
「だれか忘れたよ」と澄ましていた。羽生さんは濡れた手で眼鏡の位置を直し、横から爺さんの顔を見て立っていた。爺さんは茶碗のような大きなもので酒をぐいと飲んで、そうして、ふうと長い息を白い髯の間から吹き出した。すると羽生さんが、
「御爺さんの戦型はなにかね」と聞いた。爺さんは長い息を途中で切って、
「振り飛車だよ」と云った。羽生さんは髪の毛を撫でつけながら、
「どう見ても矢倉だが、ここから振り飛車になるのかい」とまた聞いた。すると爺さんが、また茶碗のような大きなもので熱い酒をぐいと飲んで前のような息をふうと吹いて、
「なるよ」と云った。
「四間飛車かい」と羽生さんが聞いた時、ふうと吹いた息が、障子を通り越して柳の下を抜けて、河原の方へ真直まっすぐに行った。
 爺さんが将棋盤を持って表へ出た。自分も後から出た。爺さんの腰に小さい駒袋がぶら下がっている。肩から駒袋を腋の下へ釣るしている。浅黄の股引を穿いて、浅黄の袖無を着ている。足袋だけが黄色い。何だか皮で作った足袋のように見えた。
 爺さんが真直に柳の下まで来た。柳の下に子供が三四人いた。爺さんは笑いながら将棋盤を置いた。そうしてまた並べ始めた。それから将棋盤の周囲に、大きな丸い輪を描いた。しまいに肩にかけた駒袋の中から真鍮で製しらえたキセルを出した。
「今に振り飛車になるから、見ておろう。見ておろう」と繰返して云った。
 子供は一生懸命に将棋盤を見ていた。自分も見ていた。
「見ておろう、見ておろう、好いか」と云いながら爺さんが煙草を吸って、輪の上をぐるぐる廻り出した。自分は将棋盤ばかり見ていた。けれども駒はいっこう動かなかった。
 爺さんは煙草をすぱすぱ吸った。そうして輪の上を何遍も廻った。草鞋を爪立てるように、抜足をするように、将棋盤に遠慮をするように、廻った。怖そうにも見えた。面白そうにもあった。
 やがて爺さんは煙草をぴたりとやめた。そうして、肩に掛けた駒袋を開けて、玉将を、ちょいと撮んで、将棋盤にぽっと投げた。
「こうしておくと、振り飛車になる。今に見せてやる。今に見せてやる」と云いながら、爺さんが再び将棋盤を持って真直に歩き出した。柳の下を抜けて、細い路を真直に下りて行った。自分は振り飛車が見たいから、細い道をどこまでも追ついて行った。爺さんは時々「今になる」と云ったり、「振り飛車になる」と云ったりして歩いて行く。しまいには、
 「今になる、振り飛車になる、
  きっとなる、名人にも香を引く」
と唄いながら、とうとう河の岸へ出た。橋も舟もないから、ここで休んでいるうちに盤面が振り飛車になると思っていると、爺さんはざぶざぶ河の中へ這入り出した。始めは膝くらいの深さであったが、だんだん腰から、胸の方まで水に浸つかって見えなくなる。それでも爺さんは
 「飛車が動く、3筋に動く、
  角交換する」
と唄いながら、どこまでも真直に歩いて行った。そうして髯も顔も頭も頭巾もまるで見えなくなってしまった。
 自分は爺さんが向岸へ上がった時に、振り飛車になるだろうと思って、蘆の鳴る所に立って、たった一人いつまでも待っていた。けれども爺さんは、とうとう上がって来なかった。
 待ちくたびれて帰ろうとしたとき、どこかから
「錯覚いけない、よく見るよろし」
 と爺さんの声が聞こえた。将棋盤を見ると、戦型は早石田になっていた。
「おれがにらめば、横には動けぬ銀でも横に動くのだ」
 たしかに爺さんの言った通り、銀は初形に戻っていた。
「棋士は無くてもいい商売だ。だからプロはファンにとって面白い将棋を指す義務がある」
 自分はこの言葉を聞くや否や、この爺さんが升田幸三だったと云うことを思い出した。






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