【連載】(1)

●第一章

     〔1〕

「まもなく三番線に電車が到着します。危険ですから白線の内側までお下がりください」
 線路をはさんだ対面のホームから、低いくぐもった声のアナウンスが聞こえた。
 赤木重樹は、腕の時計を確認すると、黒色のキューケースを傍らに置き、ホームのベンチに腰掛けた。
 二重瞼の大きな瞳は知性的な光を放ち、直線的な眉と高く通った鼻梁からは、強固な意志が垣間見られる。優しげに見えるのは、ふっくらとした唇のせいだろう。白いシャツと細身のパンツが似合うのは、肩幅が広いからだ。いかにもスポーツマンタイプに見えるが、この時間帯にはいささか不釣合いな感じがする。
 電車が行ってしまったばかりの駅のホームは埃っぽく、売店の新聞がかさかさと鳴る音がする。ホームの屋根の向こうに、灰白くくすんだ空が見えた。
 九月に入ったが、まだ残暑は厳しい。近くで蝉の鳴き声が聞こえる。時刻は午後三時半を回っていた。都内の駅とはいえ、この時間帯は人もあまり多くない。
 赤木は四番線ホームで、電車を待っていた。都内P駅のそばにはビリヤード用品の専門店がある。自宅とは離れているが、キューを調整するため、年に何度かはこの駅を利用している。
 ホームの電光掲示板が点滅し、次の電車の到着を知らせた。赤木はキューケースを持って立ち上がった。
 赤木は都内のビリヤード場、「ドラゴンラック」の雇われ店長だ。本職は日本プロポケットビリヤード連盟(JPBA)に所属するプロだが、プロだけでは生活していけないので、ドラゴンラックで働き、糊口を凌いでいる。今日は午後六時から仕事の予定で、早めに入って二時間ほど撞く予定だった。
 ふと対面のホームに目をやったとき、一人の男に気づいた。
 その男はダークグレーの背広を窮屈そうに着て、所在なさげに三番線のホームに立っていた。
 重戦車を連想させるがっしりとした体格に、いくぶん幼さの残る顔立ち。その見覚えのある姿は、親友の吉村建彦だった。
 吉村はどこか落ち着かない様子で、あたりを見回していた。
 だれかと待ち合わせしているのだろうか。吉村の視線は電車の来る方向ではなく、階段のほうに向けられている。腕の時計に目を落とし、溜め息をついた。
 吉村とは子供の頃からの付き合いだ。赤木と同じ北陸のI市出身で、幼稚園から慶都大学までずっと一緒だった。吉村は大学院まで進学し、大企業の南北電機の研究室に入った。赤木は大学を中退してビリヤードプロになった。
 吉村が会社に入ってからは、学生の頃のようには会わなくなった。もうかれこれ一年ほど会っていないが、赤木のかけがえのない友人の一人だ。
 久しぶりに見る吉村は少し疲れている様子だった。いつもははっきりと意思を持った瞳も、今日は少し虚ろな感じがするし、立っているだけで存在感のある姿も、心なしか小さく感じられる。先ほどから何度もついている溜め息も吉村には似合わない。
 今日は平日なのでおそらく仕事なのだろうが、吉村の仕事はエンジニアなので、あまり外出する機会はないと聞いたことがある。
 赤木は反対側のホームにいる吉村に大きく手を振った。
 吉村は赤木の姿にはまったく気づいていないようだ。
「吉村」
 赤木はキューケースを上に掲げて、吉村に声をかけた。
 吉村は階段と電車が来る方向を交互に見ている。急いでいるようにも見えるが、だれかを待っているようにも見えた。
 赤木は身を翻すと、ホーム近くの階段に走った。階段を駆け上り、反対側のホームの階段に向かった。
 ちょうどそのとき、電車が吉村の三番線ホームに入って来るのが見えた。赤木は急いで階段を駆け下りた。
 ホームに降り立ったとき、電車の扉が開いていた。吉村が立っていた場所を見たが、だれもいない。この電車で吉村は会社に戻るのだろうか。赤木は吉村の姿を探した。
 電車の扉が閉まる音楽が流れ始めたとき、電車の座席に座ろうとしている吉村の姿が見えた。赤木は電車に駆け込もうと身を乗り出したが、電車の扉が閉まった。
「おうい、吉村」
 大声で叫んだが、吉村はまったく気づかない。
 電車のガス越しの吉村は座席に座り、首を傾けたあと、小さく息をついた。精力的に動き回り、常にいるだけで強いエネルギーを放っているような吉村が、疲れた老人のようにうなだれている。赤木の知っている吉村とは別人のようだった。
 電車がゆっくりと加速しながら、P駅を去っていった。
 なにかあったのだろうか。赤木にはそのときの吉村の姿が妙に気になった。


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