【連載】(2)
〔2〕
鼓膜を震わすような衝突音が、ドラゴンラック店内の静寂な空気を突き破った。
ブレイクショットを放った赤木は構えを解き、ゆっくりと起き上がった。軽く息を吐くと、ビリヤードテーブルを見渡す。
ブレイクショットで4番がポケットインした。1番はフットクッション付近、手球はヘッドエリア付近で止まっている。離れているが入り目は十分にある。
ビリヤードテーブルを照らすペンダントライトが青緑色のラシャに反射して眩い。床の白いカーペットが、ミルク色の間接照明でぼんやりと浮かび上がっている。
赤木は構えに入ると、撞点を右上に定めた。
2番はヘッドクッション付近だ。順捻りの押し球でスリークッションさせ、手球をヘッドクッションまで回す構想だ。捻り中心のショットにして、クッションで球に加速をつけよう。
撞点を上に定め、キュー先を柔らかく突き出した。白球は1番に薄く当たり、コーナーポケットに入った。白球がフットクッションに当たると、加速してサイドクッションからヘッドエリアに転がってくる。徐々に失速し、反対側のサイドクッションに跳ね返り、ヘッドエリア内で静止した。
ドラゴンラック店員の山村勇太が、テーブル上のボールを次々に指差した。
「2番コーナー、3番サイド、5番コーナー、6番サイド、7番コーナー、8番コーナー、9番コーナー。店長がこれを撞ききれば三回連続マス割り(ブレイクショットからすべての球をノーミスで落とし切ること)ですか。さっきからおれ、椅子に座りっぱなしなんですけど、なんかしばらく続きそうっすね」
広々とした店内には全部で十台のビリヤードテーブルがある。道路側は全面ガラス張りで、夜になると、外から中の様子がすぐわかる。夜の九時半を回っていて、客はいない。いまプレーしているのは赤木のテーブルだけだ。山村の勤務が終わり、相手撞きを頼まれた。
山村は赤木と交代でドラゴンラックの店番をしている。ビリヤードを始めて一年くらいで、いまが一番面白い時期だ。最近マイキューを手に入れて、ビリヤードの練習に余念がない。
赤木は2番の前に立ち、タップにチョークをつけながら言った。
「そう思うだろ? ところがそうはいかないんだ」
「どこか難しいところでもあるんですか?」
「まあ、見てなって。座りっ放しにはさせないから」
3番はサイドポケット付近にある。赤木は2番に狙いを定めると撞点を右下に定め、キューを素早く突き出した。2番がコーナーポケットに入る。手球にはバックスピンがかかり、クッションに当たって手元に戻ってきた。
「少し強すぎじゃないですか。入り目がサイドしかないっすよ」
山村が意外そうな表情で呟いたとき、赤木は3番に向かって構えた。狙いはサイドポケットではない。数度しごき、キュー先を突き出した。
白球が3番に当たると、3番は真っ直ぐ進み9番に当たった。9番がそのままコーナーポケットに沈んだ。
赤木は山村に笑みを見せ、キュー先をフットエリアに向けた。
「座りっぱなしじゃないだろ? ほら、ラックだよ」
山村が立ち上がり、悔しそうに呟いた。
「コンビネーションっすかあ。ずりーよなあ」
コンビネーションショットとは、手球を的球に当てたあと、その的球を他の球に当てて他の球をポケットインさせるショットだ。
「こうすれば9番まで、ちまちま落とさなくて済むだろ。省エネ撞きだ」
「地道にひとつひとつ落としていきましょうよ」
「さっきの局面で9番まで落とすのもひとつの手だとは思う。でも、全部落とすまで七つのショットが必要だ。ひとつの的球を落とす確率が95%として、七つすべてを入れる可能性は95%の7乗で、約70%。3番コンビネーションで9番を落とせる可能性はそれより上だと判断したんだ」
山村が両目を見開き、感嘆の声を漏らした。
「そうだったんっすかあ。さすがプロは読みが深いなあ……」
「嘘。嘘。いま勝手に理由をこじつけただけだ。本当はなんとなくコンビネーションがよさそうだと思っただけだよ」
山村が溜め息をついた。
「からかって面白がってんでしょう。勘弁してくださいよ。さっきからラックマンやらされっぱなしで、弱ってんですから」
「真面目な話、いままでの経験から、コンビネーションかマス割りかを選択してるのは本当だ。おれたちは細かい計算をしなくても、どのショットが一番有利かを瞬時に判断できる。ま、それがプロってもんだ」
「ちぇっ」
赤木がヘッドエリアに歩き始めようとしたとき、ふと窓の外に一台の軽自動車が向かってくるのが見えた。店の前には駐車場があり、三台まで車を停められるようになっている。山村は背中を向けているので、外の様子がわからない。
軽自動車が駐車場に入ろうとしたとき、人影が横切った。アクセルを吹かす音が聞こえた。軽自動車が加速しながらこちらに向かってきた。
危ない。赤木はとっさにビリヤードテーブルに足をかけた。山村がいる方へと飛び降りると同時に、驚く山村の手を強く引っ張り、隣の台の脇に転がり込んだ。
軽自動車が店に突っ込んだ。耳をつんざく衝撃音がしてガラスが割れ、ガラスの破片が店内に砕け散った。
鈍い音を立てて、軽自動車がビリヤードテーブルにぶつかった。ビリヤードテーブルがひっくり返り、中に敷き詰められていた大理石が三つに割れた。車は大理石に乗り上げ、がくんと揺れて止まった。
赤木は急いで立ち上がり、軽自動車に向かった。
運転席には店員の佐藤優那が乗っていた。優那は苦しそうに顔をゆがめ、額から血を流している。
大声で山村を呼んだ。山村は倒れたまま唖然としていたが、我に返ったように立ち上がると、ふらふらとおぼつかない足取りで車に近づいてきた。車の中を見た山村の表情が瞬時にこわばった。
「ちょっと手伝ってくれ」
車の脇に回りこみ、運転席のドアを開けた。ドアはいびつな形に曲がっていたが、なんとか開いた。身を乗り出して優那の体を引き寄せようとしたが、運転席のシートに挟まって出られない。事故の衝撃で運転席が変形している。
「足が引っかかってる。二人でシートを戻そう」
赤木の言葉にも山村の反応は薄かった。目は虚ろで焦点が定まらず、唇が震えている。
「いいか。せえの、でシートを引け」
そう言うと、シートに手をかけた。赤木の言葉に操られるように山村もシートを掴んだ。
「せえの」
渾身の力を込めた。何度もシートを引っ張ったが、シートはわずかに動くのみだった。
優那が苦痛の呻き声を漏らした。足元からも出血しており、運転席には血が溜まっていた。山村が意思を持たない人形のような表情でへたりこんだ。
赤木は山村の頬を叩いた。
「おい、しっかりしろ。おまえの彼女だろ」
赤木はシートに手をかけ、全体重を乗せて何度も引っ張った。
突然シートが嘘のように軽く下がった。優那を抱きかかえて車の外に出した。
「早く119番を」
山村は弾かれたように立ち上がって電話をかけ始めた。
優那をカーペットの上にそっと横たえて、脇に目をやると大きな男がシートに手をかけている。吉村だ。
「相変わらず退屈しない男だな」
「いつ来たんだ?」
吉村はにやりと笑った。
「さっきだよ。お取り込み中だったけど、見てられなかったからな。どうした? ビリヤードプロを辞めて、レスキュー隊員にでも転職したのか?」
厚い胸板に太い腕で、白いTシャツがはちきれんばかりになっていた。
右手を差し出すと、吉村がその手を握った。相変わらず強い力だった。
「ビリヤードはまだ辞めちゃいない。レスキュー隊員と兼業だ。しかも臨時のな」
吉村は赤木の肩に手をかけた。
「兼業するようじゃ、いまだにタイトルを取れていないようだな」
赤木は肩をすくめると、優那を山村に任せて、吉村とカウンターに座った。
優那が救急車で病院に搬送されたあと、警察が来て、事故の様子を赤木に聴取した。聴取があらかた終わった頃、店のオーナー龍島(たつしま)が店に入ってきた。
龍島は店内を見回すと、赤木に向かって言った。
「なんだ、店の改装工事を頼んだ覚えはないぞ」
吉村が龍島に顎をしゃくり、赤木にしか聞こえない小声で囁いた。
「だれだ、この爺さんは?」
「うちの店のオーナーだよ」
赤木は龍島に向かって言った。
「佐藤さんが事故を起こして、車で店に突っ込んだんです」
「あの可愛い女の子か。それなら責めるわけにもいかんな。彼女は大丈夫なのか?」
「山村君が救急車で一緒に病院に行ってます」
赤木が答えたとき、龍島がふと吉村に視線をとめて、思い出したように手を叩いた。
「そうか、あんたが吉村か。彼から話は聞いとるよ。幼稚園のときからの幼なじみだとか」
吉村が軽く会釈すると、龍島が言った。
「あんたら久しぶりだろう。あとは僕がなんとかするから、帰りなさい」
「でも……」
「ここから先はあんたがいても同じだ。こんな調子では店は開店できんから、しばらく休みだな。店が元通りになるまで、休暇をやろう」
龍島はのんびりとした表情で笑った。
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