十三仏考
回忌法要に対応する十三仏というのがある。それは、いつ頃始まったのだろう。
Google先生に聞いてみると、
初七日:不動明王
二七日:釈迦如来
三七日:文殊菩薩
四七日:普賢菩薩
五七日:地蔵菩薩
六七日:弥勒菩薩
七七日:薬師如来
百箇日:観音菩薩
一周忌:勢至菩薩
三回忌:阿弥陀如来
七回忌:阿閦如来
一十三回忌:大日如来
三十三回忌:虚空蔵菩薩
十三仏とは、故人を三十三回忌まで守り導いてくれる13の仏様のことで、室町時代に確立された日本独自の信仰です。
…ということらしい。
如来は、仏陀の別称であり、菩薩はいずれ仏陀になる聖者のことで、本来なら、悟る資質は十分にあるのに、衆生のために涅槃に赴かす、人間界に留まっておられる方だと私は理解している。
しかし、初七日の不動明王!明王とはどういう存在なのだろうか?
私なりの見解をここに示そうと思う。
不動明王は、釈迦のことだと思う。釈迦族は、王族ではあるが、クシャトリラつまり、武人階級であった。インドのカースト制の最上位のバラモンで階級ではなかった。
それを表すのが、剣と左の弁髪である。剣は武人階級を表し、弁髪は奴隷階級を表す。
クシャトリラといえども、バラモンから見れば、奴隷階級に値する。羂索は悪人を縛るものと一般的には解釈されているが、本当は、これも奴隷階級の象徴なのでは…と思うこともある。
しかし、左の弁髪は確かに奴隷の象徴、もしくは自由ではない、つまり、誰かに雇われているという証だと思われる。
つまり、不動明王の姿は、バラモンから見た釈迦、ゴータマ・シッダールタの姿だった。火炎の炎は、禅定を表していると思われる。禅定に入ると、心がある種の発火状態になり、通常の意識とは違う意識が発火するからだ。
悟った弟子の中には、禅定から火界定に入って、実際に空中に燃え上って、涅槃に消えた強者だっている。
釈迦がそのように劇的に涅槃に入らなかったのは、人間として死ぬことを選んだからだ。キリストが罪人として死を選んだのと同じことかもしれない。
釈迦は、悟るまでの7日間、不動の禅定に入った。その7日を表すのが、頂の七髷であると思う。
バラモンが、文字の読めない民衆に、釈迦の偉大さを伝えたのが、不動明王だったのかもしれない。
さらに、不動明王の眷属に36の童子がいるとされるが、これは釈迦の悟りに至る修行品目が37あるからだと思う。
空海も「三十七菩提分法、これ宝法なり!」と「弁顕密二教論」で述べている。
36童子では、37と違うではないか、というかもしれないが、不動明王をたせば37になる。
他にも密教の金剛界曼荼羅に37体の仏が描かれているのもこれに由来するという。
正確に言うと、37修行品目はこうなる。四念処、四正勤、四如意足、五根、五力、七覚支、八正道と分類されていて、それぞれに、頭の数字に相当する品目が細かくある。なので、全部たすと、4+4+4+5+5+7+8=37になる。
最後の八正道は有名だが、これは仏陀が晩年によく説いたからだとされる。不動明王の眷属は8童子とする場合もあり、それはこの八正道に由来すると思う。この場合、本尊不動明王は含まれていない。
上記に記したように八正道以外にも全部で37の修行品目があり、それが、曼荼羅や眷属の形で残してあると考えられる。いわば、釈迦=ゴータマ・シッダールタの分身のようなものである。
十三仏のうち、不動明王と釈迦如来は同一人物ということになる。
悟りに向けて不動の禅定で、修行しているのが不動明王で、悟ったのが釈迦ということになる。
残りの11仏はどういう由来か、学術的なことはよくわからないが、わたしは少し面白いことに気づいた。
私は、最初に密教に興味をもち、のちに原始仏教の瞑想(ヴィパッサナー瞑想)に興味を持った。そういう経緯から見ると、十三仏の存在が実におもしろく感じる。
まず、残りの11仏は、如来と菩薩に分かれる。4如来と7菩薩である。そこに、面白い符号を感じた。
ヴィパッサナー瞑想は仏陀が直伝で残した瞑想とされる。
先ほどの修行品目の八正道でいうと、正念を重視して行う瞑想で、この場合の「念」は漢字を上と下に分解した「今の心」という意味である。
今の瞬間に気づきを、常に継続して、強化して、ついには悟りにまで至るという瞑想である。
マインドフルネスとは、このパクリと言ってもいい。
この瞑想で、近代まで本当に涅槃に達した僧侶が、ミャンマーなどには少なからずいた。涅槃には入った瞬間、それがわかるらしい。
しかも、完全に悟るまで、涅槃は4度経験しなければならない。故鳥山明さんのスーパーサイヤ人が4まであるのと同じで可笑しい。
一度涅槃を経験すれば、預流の聖者になる。聖者の流れに預かるという意味で、この段階になると、もう苦しみの輪廻転生はしない。7回生まれ変わって修行を完成させる。なので、七来とも呼ばれる。
二回目の涅槃を経験すると、一来の聖者になる。もう一度生まれてくる聖者という意味である。
そして、三回目の涅槃を経験すると、不還の聖者に。もう帰ってこないという意味で、不還。なくなると次はこの世に生まれることなく、神霊界で修行を完成する。
生きたまま四回目の涅槃を経験すると、阿羅漢となる。
ここまでくると仏陀と境地は同じで、もう苦しみの世界に転生することはない。
最初に涅槃にはいると、7回修行を完成させるために生まれてくる。つまり、これが7菩薩の数と一致する。
涅槃を体験する四聖者(預流、一来、不還、阿羅漢)は4如来の数と一致する。
これで、十三仏の正体はすべて、釈迦、すなわちゴータマ・シッダールタに帰一することになる。
あくまでも、わたしの妄想なんだけど、我ながら、符号の一致がすばらしいので、こうして文章にまとさせていただきました。
あしからず。