句:弱肉強食
弱肉強食とは、『大自然の掟』『世の理』などと語られることが多い――けれども全くそんなことはない、一部の人類がでっち上げた不公平なルールである。
主に強者が弱者から搾取することの正当化や開き直り、あるいは逆転不可能という勝利宣言などに用いられる。
以下で見ていく通り、自然界は弱肉強食ではない。この概念を最も体現しているのは、恐らく人間社会だろう。
◆自然界では
人間社会については後に回して、野生の生物相について考える。
生物種として
まずはある生物種が絶滅してしまうか存続できるかという観点。
仮に弱肉強食が自然界の理なら、弱い生物は滅び強い生物は栄えるはずだ――が、もちろん実際はそうではない。
種の存続は、種としての強さより環境に大きく依存する。適応すれば生き残り、できなければ滅びるのだ。
かつてモーリシャス島に生息していたドードーは、空も飛べず歩くのも苦手で警戒心すら薄いという生存力の低さだったが、人間が来る前は島の全域に住んでいた。天敵がいない環境だったからだ。
また、肉食動物の強さ(狩りの成功率など)は個体数に直結しない。捕食対象を食べ過ぎれば自分達も飢えるからだ。そして捕食対象が何らかの原因で絶滅すると道連れになるおそれもある。これはいくら強い種でもどうにもならない問題だ。
つまり生物種としては、弱肉強食ではなく適者生存である。
個体として
では個体単位ではどうか。肉食獣が草食獣を狙う時、そこには脚力や体力といった強さが間違いなく関係するだろう。
が、強さだけで決まるものなら最も速く走れるチーターの狩りはもっと成功している(正確な全件観察など不可能だが、高めにみても5割程度しか成功しないらしい)。ここでも環境要因が絡んでくるからだ。
環境というか、はっきり言えば運である。
走り出す直前に風向きが変わって接近を知られてしまった、などという失敗は強さとは何の関係もない。
逃げようとした草食獣がたまたま地面のぬかるみで転んでしまったとして、悠々と食事にありついた肉食獣が強いという話にはならないだろう。
つまり個体としてみても、弱肉強食ではなく運否天賦※というのが現実だ。
(※前提条件にもよるが、より環境に適応している側が勝つ可能性は高い――こともある。だとしてもそれは多数のケースから統計を取った場合に見える傾向であって、ある一度の狩りに絞ればどちらにも転ぶのが運というものだ。強い者が弱い者を食らうとは限らない)
◆人間社会
自然界がどうであれ人間の認識として――慣用句として――この言葉が根付いている以上、真実の一面を写し取ってはいるのだろう。
ではそれは、誰にとっての真実か?
言葉の由来
『弱肉強食』の元を辿れば、唐代の学者/官僚、韓愈の著作に行き着くとされている。
確かに、弱きの肉を強きが食らうと書いてある(太字は引用者)。
しかしこれは人間社会を表したものではない。少し前の部分から訳をつけて引用し直そう。
※文暢はこの時に韓愈と話している相手の名。
つまり韓愈は、弱肉強食は人の生き方ではないとはっきり言っているし、獣のように生きたくはないだろう、人間らしく生きられることは幸福だろうという価値観も示している。
これは倫理の話だ。
よって弱肉強食を自らの価値観として語ることは『(韓愈のいう)人間らしい生き方をやめ・獣のように生きる』との宣言に近い。
(由来の余談)
当時の唐には、西からある宗教が入り込んでおり、韓愈はこれをカルトの如く嫌っていたらしい。彼は一言で表せば保守派であり、『今の暮らしがあるのは過去の王朝が伝統的なやり方で文化を継いできたおかげ』、『それを捻じ曲げようとする宗教はけしからん』、そういう立場だった。
そしてその宗教とは仏教である。この書のタイトルは『送浮屠文畅师序』で、『浮屠』――フダ、すなわちブッダのこと――に対する批判本だ。
現代において
弱肉強食ということばはしばしば経営の話題で使われる。『弱肉強食主義』などという言い回しはマイナスイメージが強いので自称するものではないだろうが、資本家・経営者にとってそれほど異端な考え方ではない。
ちゃんと法令は守る。
その上で利益を最大化する。ライバルが弱ければシェアを奪う。
その結果、よその会社が潰れようが社員が路頭に迷おうがこちらに責任はない。
これらは恐らく経営者にとって美徳である。自社の社員や株主の為に利益を最大化することは(役員に課せられた)義務でさえある。
また(3)についても、福祉は国の仕事と考えれば無責任とも言い切れない。
韓愈の頃には想像もつかなかったかも知れないが、今や弱肉強食は人間社会の一面である。
――あくまで、一面だ。自然の理などではなかったように、人間社会の全てを覆っているわけでもない。資本家によるハウスルール。
時々、弱肉強食を普遍的なルールだと、『受け入れるべき現実』なのだと語る人が見られる。そのように判じる根拠は特にない。
あくまで人間社会の一部。
ただし、その支配域は拡がりつつあること――WEB広告のような関心経済の遍在化――を強調して、本稿は区切りとする。
以上