ことばの力 -認知の歪みと呼ばないで
先日、『性的搾取』というワードがTwitterでトレンド入りしていた。何かひどい事件でもあったのかと思いきやそんな経緯ではなく、
(前提)『性的搾取』は明確な定義がある専門用語である
その定義を全く無視して相手の行いを責める罵倒として使った人がいた
多くの指摘を受けても謝ったり取り下げたりせず無理なレスバを始めて火の手が広がった
といった、いつものTwitterであった。
(用語自体について)
レスバの中身を読むと神経質に感じられるかも知れないが、どんな組織が定義しようとも、ことばの意味はたやすく移ろってしまう。だからブレさせるべきでないことば(後述)の濫用はきちんと指摘することも重要である。
対称的な例として『ジェンダー』を挙げよう。
日本政府・男女共同参画局は2005年の第2次基本計画内で『ジェンダー』という語に次のような説明を充てている。
しかしこのような文書を全く知らずにジェンダーという語を使っている人は少なくないだろう。
それが悪いと言うつもりはない。ことばとはそういうものだ。定義があっても遵守はされにくい。上に挙げた『性的搾取』のような保守を行わない限りは。
(ことばの移ろいと『定義』に関する誤解について)
変わっちゃ困ることば
ことばの変化は押し留めようもないが、かといって変わってしまっては困るものも多い。『性的搾取』もそうだし、法律用語などもこれに当たる。
だから法律の条文は、第2条辺りで『この法律において、●●という用語の意義は〜』などと定義して厳密に使用される。
(例)
同じように意味の変化を防いでおきたいカテゴリが『医学用語』だ。しかし残念なことに、(法律の条文に比べ人々の関心が強いせいなのか)より濫用されている現状がある。
先述の通り筆者は基本的に『ことばは変っていくものだから自然な変化は仕方がない』的なスタンスだが、医療に関することばは例外としている。人の健康に関わるからだ。
幾つか例を挙げよう。
『認知の歪み』
『認知の歪み』は精神医療における概念である。幾つかの特徴的な思考パターンのことで、このような考え方をしていると抑うつや不安が長く・悪くなりやすい。これを改善するために認知行動療法などが開発された。
では試しに、Twitterで『認知の歪み』を検索してみる。
〔リアルタイム検索へのリンク〕
※かなり攻撃的なツイートもヒットすることがあるので注意されたし
この語は単なる罵倒として、つまり『自分には到底受け入れられない馬鹿げた考え』に対するレッテルとして使われることがある。憂慮すべきことだ。
治療の為のことばに悪いイメージがこびり付いていると、当事者を適切な医療から遠ざけてしまいかねない。実際に以下のようなツイートを見かけた。
(治療を始める前と思しき人)『認知の歪みを治す』って語感が悪すぎて認知行動療法やりたくない。
(治療中と思しき人)認知行動療法は自分の認知の歪みを自覚しなきゃいけないのにTLをみると自覚が歪みそう。
(別の人)自分には確かに認知の歪みがある。それと同じ言葉が、雑な使い方とはいえ、性犯罪者を叩く棒にされててモヤモヤする。
そう、『認知の歪み』の濫用は性犯罪者に向けられることも多い。逮捕後のニュースで偶に見られる、『被害者も喜んでいると思った』などという加害者のコメントである。
もちろんそれは批判されて然るべき身勝手だろう。しかし認知の歪みと呼ぶべきものではない。単に『思い込み』『事実誤認』でこと足りる。
あるいはこんな反論があるかも知れない。
『その加害者は本当に認知の歪みを抱えていたかも知れないじゃないか』。
その可能性はある。アーロン・ベックによる本来の定義(10の典型区分)に当てはまるかも知れない。しかしだとしても、やはり使うべきではない――その加害者の歪みを良くする資格や意欲が無いのなら。
だって、それは治療に使う道具だ。乗り越えるべきハードルを明確にして、患者の状態を正しく把握するための物差し。病院に置いてある道具や機械に部外者が触れるべきではないのは当たり前だろう。
医療用語を悪意の表現として使うことは、誰にも消毒できない医療用メスを素手で握るに等しい。
汚染を拡げないで欲しい。
『トラウマの再演』
『トラウマの再演』とは、過去のトラウマの影響から、一般的に言って危険で自傷的な状況に飛び込んでいってしまう心理作用――という説明は前後関係がおかしいので後ほど補足するとして。
あるジャーナリストは、女性がアダルトビデオに出演することをトラウマの再演として説明した。
AV女優の自己決定を――同時にその能力を――踏みにじっているなど何重にも問題があるが、ここでは言葉の問題にフォーカスする。
上記ツイートの用例は、トラウマの再演ではなく反復強迫または強迫性障害と呼ぶ方が医療用語として適切に思われる。
心理療法の中で、再演という言葉は全く異なる意味で使われることがあるからだ。
安全なカウンセリングルームで、マネキンなどを加害者に見立てて、トラウマの原体験を再現するような治療のやり方がある。英語ではRe-enactmentなどと呼ばれ、これは直訳すると再演となってしまう。紛らわしい。
また、仮に反復強迫のことをトラウマの再演と呼ぶとしても問題は残る。
本人が望んでいないはずの行動に強迫を感じてしまうとして、その原因が過去のトラウマ体験にあるというのは可能性のひとつに過ぎないことだ。
行動だけをみてそれを『トラウマの再演』と評してしまうことは予断であり、仮に治療が必要だとしても妨げにしかならない。
肝心なのは
これらの例を批判している理由は、『定義から外れているから』ではないことに注意して欲しい。問題視しているのは『目的から外れた使用』だ。
治療のためにあるものを治療以外に使わないで欲しい、それだけのことだ。
ここまで、ことばの目的外使用を『医療の妨げになる』点から批判してきた。
以下はそれとは別軸で、『議論の公正さ』の面から見てみよう。
定義にこだわらない
筆者が言っても説得力に欠けるものの――定義にこだわり過ぎない方が良い。
定義とは詰まるところ、誰かが決めたルールに過ぎないのだから。
議論を拒むレッテル
『認知の歪み』の例で示したのは一方的なレッテル貼りだった。相手の論説を批判するのではなく、相手の人格や判断力を病理化する――シンプルに卑怯なやり口だ。
別の例を紹介する。
『無知でありながら邪悪に敏感・かつ思い立ったら即行動』というパーソナリティを批判するのは自由だ。それを縮めてメロス的と表すのも自由だ。
けれどレッテル貼りはブーメラン。
『無知なくせに専門家を邪悪認定するなんて、お前はメロス的だな』と。あまつさえ『メロス的』では済ませず『メロス症候群』と。
それは『あんた達ビョーキだよ』と一方的に言い渡しているだけだ。
議論を操る定義
加えて、『メロス症候群』は造語である。その定義は(まずは)造語者が定めるのが筋であり、誰かから『私はメロス症候群ではない』と反論されても自在に定義を変えて相手を飲み込んでしまえる。不公平極まりない。
だから定義にこだわるべきではない。相手のフィールドで戦うようなものだからだ。
造語に限らず、『Xという概念に当てはまるか否か』というカテゴライズの問題を見かけたら関わる前に慎重になった方が良い。
『トランス女性は女性に含まれるか否か』などのように、カテゴリ問題は(温泉やトイレなど)より具体的な問題の前提に過ぎなかったり、あるいは前提に据えられること自体が不適切であったりする。
なのにカテゴリ問題を厳密に考えれば定義問題(『女とは何か』)に触れないわけにはいかず、本来の具体的な論点からどんどん遠ざかってしまう。
そしてこのような例で、定義が合意されることは恐らくない。定義を相手の好きなように決めさせたらこちらの動きが制限されるからだ。
話は泥沼化して、時間が経てばなし崩し的にことばの意味は変わってしまう――『辞書に載ったのだからこうなのだ!』などと言って。
もちろん辞書は言葉を定義するものではないので不当な難癖なのだが。
よって、より具体的な問題に直接アプローチした方が良い。
(例えば)構造的な安全性を追求するだとか。内容に
に賛同するかはともかく、少なくとも定義・カテゴリ論争よりは建設的だ。
定義・カテゴリという抽象論をやっていると、仮に何らかの合意に至っても、銭湯とトイレとで扱いを揃えなれば不整合ということになってしまう。しかし実際には『トイレはまだ良いけどお風呂は止めてほしい』と考える人もいるはずだ。
そういった個別の直観を――尊重されるべきものを――定義やカテゴリは塗りつぶしてしまう。
まとめ
少々話が散逸してしまったので整理。
『あなたの認知は歪んでいる』なんて、借り物の概念で話す必要はない。
『あなたの認識は間違っている』なりなんなり、自分のことばで話すべきだ。そうすれば他人の道具を汚す心配もない。
『私は●●ではない』なんて、現実離れしたカテゴリ論争で消耗するのは勿体ない。
『いいから質問に答えてほしい』なりなんなり、話を前に進めるべきだ。どうせエネルギーを使うならば。
以上。