理由の誤謬、誘導注意

 人は理由を知りたがり、語りたがる。そこに魅力を感じてしまう。
 ほとんど執着と呼べるくらいに。

 常に無意味というわけではない。安全性を高めたい工場などでは、ヒヤリハット事例の理由を明らかにしなければならないだろう。それは素晴らしい取り組みだ。  しかし何にでも適用できるわけではない。再発防止などの何かに役立つ理由が、常に見つかるとは限らないからだ。

 『●●は■■だからだ』といった記述を目にする機会はとても多いが――

  • 客観的に確かめられることだけを積み上げた事実ファクト

  • 語り手の意図が含まれた修辞レトリック

望ましいのがどちらかと言えば、もちろん前者だろう。後者は語り手が間違っていたら無意味だからだ。

 しかし前者に徹しようとすると……ほとんどのケースで、理由は上手く記述できない。だから実際に語られる『〜だからだ』は、かなりの部分が後者である

 語り手の意図がそこにある。誤りや扇動のリスクが常にある。排除はできない。
 聞き手が意識して気をつけるしかない。どんなにスッキリと納得できても、あらゆる疑問が解けたように感じても、それを客観的な事実ファクトと考えるのは誤解フォルト

 本稿は、事実のみで理由を語ることの難しさ・不可能性と、“事実”と称される理由の大部分が事実ファクトではないことを摘示する。

物理現象の例

 球Aが斜面を転がって、下にあった球Bにぶつかる。この物理現象はなぜ起こるのだろうか。
 その厳密な答えは、問いの立て方によって変わってしまう。

 問いが『球Aが坂道を転がり落ちたのはなぜか』であれば、『重力の存在』が答えになる。また、球Aを固定するような『ストッパーの不在』という指摘も(物理の問題としては的外れだが)間違いではない。

 これが『球Aと球Bがぶつかったのはなぜか』だと話が変わる。重力は真下へのベクトルで、BはAの真下にあったわけではないからだ。重力だけではぶつからない。  充分な硬さを持つ坂道があり、その斜面によって斜め方向のベクトルが生じて、AをBに近付けた。つまり重力に加えて『抗力の存在』を指摘するべきだ。

他に理由は無いか?

 そう、理由が一つとは限らない。
 幾つかの答えが重要な要因だったとして、『他に要因は無い』と証明することは極めて難しい。

 たとえば、万有引力という言葉の通り球Aも球Bも周囲の物体を引き寄せる引力を有している。
 その力は地球の重力と比べ遥かに小さく、球体の運動に目に見えるほどの影響は与えられない。無視しても問題ないほど弱い力だ。だから無視される――が、存在はしている

 つまり、問いが運動についてのものならAB間の引力は無視しても良いが、力学一般について(『球Aに作用する力を全て挙げよ』など)であれば省いてはならない。

 訊ね方によって答えが変わる。それは何らかの意図で捻じ曲げることも出来るということだ。
 事実ファクトとは程遠い修辞レトリックである。

生理現象の例

 人は暑いと汗をかく。この生理現象はなぜ起こるのだろうか。
 『体温を下げるため』というのが模範解答とされがちだ。

 しかしこれは事実とは――客観に徹しているとは――言えない。
 球が転がる例と比べれば明らかに、体温を下げるという目的意識を踏まえている。そんな意識は実在しないのに、だ(眠っている間も汗はかくし、涼しい部屋で体温を下げたいと念じても汗はかけない)。

 体内で起こっていることは本来とても複雑で、分かりやすさのために擬人化されることはある。しかしそれでも、細胞のひとつひとつや血液中の化学物質は感情や思考をもって動くわけではない。

 注射器のピストンを押せば中身が押し出されるように流体力学、水溶液に電気を流すと電極に特定の物質が集まるように電磁気学、水分が半透膜の内外で濃度を近づけようとするように物理化学、それらは自動的な――球が重力に引かれるような――現象だ。

 そういった事実ファクトのみに基づくなら、汗をかく理由は『熱が血管を拡張させて血流量が増すことで(詳細は割愛)』と記述されるだろう。

 対して、体温を下げるためという記述は明らかに修辞的レトリカルだ。

  1. 人体の自動的な生理反応が、まるで意識を有しているかのように語っている点

  2. 汗をかくことの結果の内、人体にとって有利な側面だけを切り取っている点

  3. そもそも汗をかくだけでは体温は下がらない点

 1.については上で述べた通り。以下では2.3.について触れよう。

他に結果は無いか?

 汗をかくと結果的に体温は下がるかも知れないが、他のことも起こる。例えば身体から水分や塩分は出ていってしまう
 なのにそれらが汗をかく理由とされることはない。人間の生存や安全にとって、それらは損失(またはコスト)であって利益ではないからだ。

 コストのかからない生理反応なんて存在しないので、事実に基づく記述は常に負の側面を伴う。
 しかしメリットとコストを全て(長々と)並べられるよりも、暑い時に体温を下げられるという利益だけ(簡潔に)切り出された方が、聞き手は納得しやすいだろう。

 それは説得力を高めようという語り手の意図による選別である。

理由と結果の間には?

 科学的・客観的な視点を貫くなら、汗をかくだけでは体温は下がらない
 汗をかいた上で風などを浴びて、水分が飛ぶ時に初めて熱が奪われる。だから無風の高湿空間ではほとんど身体を冷ませない。

 『汗をかくのはなぜか』に対する『体温を下げるため』は、問いに無い外的要因(風など)が含まれた間接的な答えだ。

※それが悪いと言いたいわけではない。
※事実と見なすことが誤解だと言いたい。

社会問題(人の行動)

 例として物理現象と生理現象を挙げたが、これらには人の意識が――少なくとも自覚的な作為は――関与していない。 それらでさえ、事実に徹した記述は難しいことを指摘してきた。
 人の行動となると尚更である。何しろ他人の心は読めないのだから。

 例えば、『政治家の言動や政策がアメリカに媚びている』などと批判されることがある。

 それはもしかしたら真実かも知れない。その政治家は心の底からアメリカが大好きで本邦の利益などどうでも良いのかも知れない
 が、それを客観的に確かめる術はない。

 『あの政策はアメリカに媚を売るためのものだ』という記述は修辞レトリックである。
 根拠が無いからだ。

 客観的な――かどうかはともかく――数字が持ち出されることもある。例えばその政策によってアメリカが●千万ドルの貿易黒字を得た、だとか。

 『あの政策はアメリカに貿易利益を供与するためのものだ』という記述。修辞レトリックである。
 交換にこちらが何らかの利益を得ていても、批判側がそれに触れることはないからだ。他の理由や結果を、政治的な意図によって無視している。

 『そんなこと言ったら事実ファクトベースの議論なんか不可能じゃないか』と思われただろうか。

 その通りである
 日常会話程度の労力では不可能だ。

 “事実ベース”という言葉自体が、非常に多くのケースで、なんとなく良さげな印象を聞き手に抱かせる美辞麗句キャッチフレーズとして使われてしまっている。ろくろを回すコンサルタントが乱用しがちな横文字に近い。

 凶悪な事件ややるせない社会問題に直面し、理由が分からなければ不安や不気味さを感じるだろう。それは当たり前の心理だ。
 理由を知りたいと欲することも、人のプライバシーを侵さない範囲なら何の問題も無い。
 誰かから理由を解説されて、スッキリと納得することもあるだろう。それが語り手の見事なレトリックだと認識している分には問題ない

 しかし巧みな語り手にとって、ひとつの事実ファクトから相反する修辞レトリックを紡ぐことさえ難しくはないことも認識すべきだ。
 自己矛盾と批判されるから普通はやらないだけで、事実ならざる言辞とは要するに『ものは言いよう』なのだから。

 別に政治家や活動家などに限った話ではなく、普通の人でも普段からやっていることだ。社会的な顔とはそうやって保たれる。

 つまり、『●●は■■だからだ』という断言調の言明は、次のいずれかだ。

  • 現象を実際よりも単純に捉えていて、かつその自覚がないパターン

  • 自身の言明が必ずしも事実ではないと自覚しながら、何らかの理由で聞き手の同調を求めているパターン

 前者はともかく、後者は街頭演説と大差はない。『私に清き一票を!』だ。その演説に票を得るための言葉選びや感情誘導などのテクニックが使われるのは当たり前である。

 もし、『あの人は事実だけを語っている、それに反する意見は全て誤りか攻撃か陰謀論だ』と思うなら。
 それは思考ではなく信仰だ
 こういった言葉遊びももちろん修辞レトリックであって事実ファクトではない。そう簡単に語れるものではない。



(その困難を踏み越えて事実だけを積み上げようとするからこそ、学究の徒アカデミックは尊敬されるのである――と、この先は話が逸れるのでまた別の機会に)


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