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「問い」について考える
初任の頃、様々な事に悩んでいました。
頭の中にモヤモヤと。
本来の意味は違うかもしれませんが、この記事ではこのことを「問い」と定義させてください。
その当時の先輩方を見ていて、経験年数が経てばこの「問い」はだんだん減っていくのかなぁと考えていました。
しかし、経験年数が経つにつれて増えてきたなぁと感じています。
最近でいえば、
「自分はどんな教育がしたいのかな?」
「自分がしたい教育って、子どもたちもそう感じているのか?感じていなかったら、それは押し付けになっていないか。」
「自分がやっている厳しさって、子どもたちの自由を奪っていないだろうか。」
「今、担任している子どもたちと残り7か月どのように過ごしていきたいのか?」
そして、このような問いが浮かんでくることが自分自身とてもしんどかったです。
常に頭の中で考えている状態が。
そんなとき、若松先生が「問い」についての著書を出されてるということですぐに予約購入しました。
本を読んだり、先日の土曜日は著者の若松先生や1年前のセミナーで出会った先生方と読書会をしたりする機会を設けていただいたりしました。
その中で「問い」について考えたことを以下、述べていきたいと思います。
すぐに解決しようとしなくていい
よく「木を見て森を見ず」「森を見て木を見ず」という言葉がありますが、どちらかが大事だと言うわけではなく、最終的には「木も見て森を見る」ことが重要です。その子や子どもたちに表れている「気になる部分」だけに着目していると、本質的なことが見えなくなってしまいます。「どちらも見る」「全体を捉える」という意識を持っておくことで、「そこで何が起きているかのか?」を客観的に捉えられるようになります。
本人に「どうして?」って聞いていい場合は、それはプロの技であって、尋ねても大丈夫、もしくは尋ねる必要性があるという冷静な判断のもとで行われることですから。
僕は、まなざしを向ける、つまり子どもたちの言動を「それはおかしいだろう!」「ちゃんとやりなさい!」ではなくて、『どうして一文字も書いていないのかな』とか『どうしていつも掃除用具入れの上によじ登っているのかな』というまなざしを向けて見つめ直したいと申し上げているのです。
この2つの本って、繋がっているような気がしました。
「客観的に捉える事」と「まなざしを向ける事」。
私は、最近すぐに解決しようとしているなと感じます。
「何で?」
「どうやったら?」
それって、子どもを<今>でしか見ていないなと。
「客観的に捉える」「まなざしを向ける」ということは、<今>だけでなく、<過去-現在-未来>を繋げて考えようとしてことではないのかなと私は考えました。
すぐに解決しようとしない。目の前の子どもの今までと現在、これからをつなげて考える。
「今までもそうだったのかな?」
「本当に自分が今考えていることが将来のこの子のためになってる?」
そういった問いを一旦自分の中に受け止めて考えていきたいなと思います。
何もしないことではない
先ほどの「すぐに解決しようとしない」。
それは、何も行動しないことではないなと感じます。
例えば、最近の体育でのマット運動の授業。
クラスの子ども、仮にAさんとします。
Aさんは、マット運動のときにほとんど運動をしていませんでした。
以前の私なら、
「何でやらないの?やってみようよ!」
と声をかけていました。
でも、まず自分の中で考えてみました。
「授業がおもしろくないのかも」
「マットが苦手なのかもしれない」
「私が関われていないのかも」
そして、次の体育の時間は私も一緒にやってみることにしました。
Aさんにずっとついておくのではなく、子どもたちと純粋に楽しむ。
そして、Aさんに
「一緒にしてみる?」
「一緒にしよう!」と声をかけると何か教師のやらせる感が強くなってしまうなと考え、Aさんの意志を聞いてみようと考えた結果、このような声かけになりました。
少しですが、一緒にマット運動をAさんとする時間がとても嬉しかったです。
そうやって、目の前の子どもと一緒に解決方法を探っていく。
そのような営みが大事なのではないかなと感じました。
しかし、もしかすると自分が楽しんでいただけかもしれない。
本当はAさんは、楽しくなかったのかも。
ここでも、また新たな問いが生まれました。
以上が私の考えです。
私は、まだまだ直接的に子どもに問うてしまうこともあります。
そして、早く早く解決しようとしてしまうこともあります。
深く考えず、すぐに口走ってしまうこともあります。
こうやって、自分の言動を常に振り返りながらだれもが大切にされる学校や社会の実現を目指して、モヤモヤしていきたいなと思います。