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私のうつ病は。⑦

自己を見つめ直す旅

 このnoteは、今まで生きて来た人生を振り返り、本当は自分はどんな人間なのか思い巡らせることが出来た。曖昧に散らばっていた自分というものが繋がっていき、客観的に自分のことを見られるようになったと思う。
 こうやってネットで公開するからには多少自分を良く見せようとする気持ちは無意識に出て来ると思うので、なるべく抑えた。私がひとりで語ることはすべて一方的で、何が本当のことかはわからないけれど、出来るだけ謙虚に、そして書きたくないことはぼやかして書いている。自分が傷つかないようにも気を留めながら。

うつ病との戦いの苦悩

 なぜうつ病になったのか、理由はあるけれど、それは生きて来て結んだ人間関係の中に散りばめられていて、誰か一人の人からの影響によるものではないと思う。自分の生まれながらの資質がそういう傾向にあるのかもしれない。恐怖心を抱きやすいように思う。
 もう長患いになってしまったうつ病の間、心身は老いていくし、不調も待ってくれない。だんだん無理がきかなくなってくる。映画やドラマを観るのが好きだったのに、一切興味が持てなくなる。好きだったことに興味を失った。
人の期待に応えようとしても、応えられない情けなさ。
出来ない苛立たしさと絶望。
ぼーっと横になって変化がないようでも頭の中は、嵐のようにさまざまなことが吹き荒れては去り吹き荒れては去り、収拾がつかずに考えあぐねては悲嘆に暮れていた。自分が自分でなくなるような、説明がつかない状態だった。
ここ3年ほどは良くなって来ているので、当時のことはぼやけて来てもいる。

 ビリビリ破いてしまった聖書は買い直した。書い直すくらいなら破かなければ良かった。書き込みもたくさんしていたし、理解する上で重要なポイントも書いてあった。私の財産だったはずなのに、書き込みの内容はすっかり忘れてしまった。またそれも道だったかもしれない。真っ新な心で読めるはずだ。どんなに否定されようと。

 一度、立ち直れたきっかけをくれた人がいた。ものみの塔(エホバの証人)の信者2世さんだった。エホバの証人は、その子どもから反発されることが多々あるようで、その人も例外ではなかった。聖書そのものを憎んでいて、離婚を認めない教義も憎んでいた人。ちなみにエホバの証人が持つ聖書は「新世界訳」というもので、この新世界訳は、私が持っている聖書、今現在まで世界中で読まれている聖書とはその解釈について独自解釈をしている箇所がある。まず、キリストは神ではなく、天使長ミカエルと同列にしている。聖霊も神ではないとして、父なる神、御子イエス・キリスト、聖霊による三位一体の神であることを否定している。全知全能の神のみを認めている。エホバとは、旧約聖書ではみだりに唱えてはならないとされる「ヤハウェ」のことであり、ヘブライ語ではYahwehとなる。
そういうわけで私が主イエスさまに祈ることも無意味なことと見ていた。
「そんなに天国に行きたいのか?」とたまに憤慨していた。
天国に行きたい、私にはそういうことよりも生きているうちに罪を赦されたいという気持ちが根底にある。多分矢印の向きが違っている。根本ではどうしても理解し合えなかった。多くの時間を割いてくれたものの、期待には応えられなかった。私にとても良くしてくれたので、二度と会えなくなったのはとても痛手だった。そうしたのは私自身。
 その後、私はわかり合えなかった空虚な気持ちを抱えて、さらに大きく自分を傷つけた。その分、いろんな人を傷つけてしまった。魔が差したという無責任なことは言えない。自分を積極的に死に渡そうとしていたと言える。詳しくは書けないこと...。
自分でもどこかでブレーキをかけないといけないという思いから勝手に期限を設けた。
その期限が過ぎたら娘は中学3年生になるのだから、いつまでもいつまでも自分のことばかり追求しているのは許されないことだと思った。それ以降、極端に人嫌いになっていく。22年間のうちの2年間の話。いろんな人が関わっていた。もういい。誰にも近寄らない、近寄られたくない。傷つけたくないし、傷つけられたくない一心で。

希望を見つけるきっかけとしての信仰

 (信仰のススメではありません。一応)

 絶望によって嘆き悲しんでも、その反動で揺るぎない希望を私は渇望した。
もし、私が聖書に興味を持ち、何が書かれているのかを知りたいという気持ちがなかった場合、私は自分自身を崖から突き落とすような悲惨な行いをやめられず、堕ちるところまで堕ちていただろうと思う。
 環境、人間関係、この世の中、すべてにおいて思い通りには出来ないことの方が多い。また子どもを産み育てていくことそのものを、この希望というバックボーンがなければ怖くて出来なかっただろう。まだ起こってもいない未来への恐怖心はなかなかしぶとい。なかなか消えてくれない。ある程度はあっていいものではあるけど、強くなれば余計に生きづらくなってしまう。固まってしまう心をほぐしてくれるこの希望は私の大切なものである。

忍耐と信仰から生まれる希望の力

 祈っても、祈りは聞いてもらえないと思ってしまうこともあるけれど、後々振り返れば、幾人かの新しい出会いや出来事で守られていたんだとわかる日が来る。忍耐するのも辛いことだけれど忍耐するしかない状態になることもある。手も足も出ず、声も出せなくなるような出来事もやって来る。結局のところはどっちみち、辛いことはついて回るのだ。しかし誰かが言った。
「止まない雨はない」「明けない夜はない」と。

"忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。"

ローマ人への手紙 5章4~5節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 とても遠回りしてしまったのかもしれないけれど、希望を失わなかったのは幸いだった。主はわが子を決して見捨てないというのは本当のことだ。何もかも思い通りにいかなくても自分の心だけはどうにか出来る。最終手段、心の中にも頭の中にも、スチール製のような箱を作るイメージをし、どこにも隙が出来ないよう、水一滴も漏れないようきっちり溶接して、ネジ締めをして、そこの小さな領域だけは解放せずに、自我を閉じこめておく。手も足も声も出さなくて良い。でも娘はその箱に自由に出入り出来、たまに私を箱から取り出す権限を持たせるという自分なりの手段を作った。私のせいで事態が悪化することは防ぐことが出来る。いろいろ便利。その箱をちゃんと背負ってくれる存在があるから、私は全信頼をおく。

FootPrints 足跡


 とても有名な、とあるクリスチャンの詩。
http://azuls.oboroduki.com/aroom/seeking2/poem.html

この詩は次のページでも取り上げる予定ですが、先に上記リンクから詩の全文と日本語訳を読めます。

この後は、身体がボロボロになってしまったいくつかの話。
うつで動けなくても、出来る時にはぜひ身体を労った方が良い。セルフケアは大事。

続く。

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