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私のうつ病は。⑧

病者の祈り

~ニューヨーク・リハビリテーション研究所の壁に書かれた一患者の詩~

大事を成そうとして
力を与えてほしいと神に求めたのに
慎み深く従順であるようにと
弱さを授かった

より偉大なことができるように
健康を求めたのに
よりよきことができるようにと
病弱を与えられた

幸せになろうとして
富を求めたのに
賢明であるようにと
貧困を授かった

世の人々の賞賛を得ようとして
権力を求めたのに
神の前にひざまずくようにと
弱さを授かった

人生を享楽しようと
あらゆるものを求めたのに
あらゆるものを喜べるようにと
生命を授かった

求めたものは一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞き届けられた
神の意にそわぬ者であるにもかかわらず
心の中の言い表せない祈りは
すべてかなえられた
私はあらゆる人々の中で
最も豊かに祝福されたのだ

 前ページで載せた「足跡」の詩と並んで、「病者の祈り」は心に沁みた。
この詩の作者は、聖霊に満たされていたと思う。望んだものは何一つ与えられなかったというのは、挫折と痛みと弱者としての苦しみに満ちた人生なのではないかと思える。それでも作者が辿り着いたこの詩はこんなに短いのに、聖書にある真理を見事に現していると思う。心の中の言い表せない祈りは、すべて聖霊が執りなしてくれた。そして、それがわかった時に喜びに満ちてこの詩を壁に書いたのだ。

 はぁ?どういうこと?と思われるだろう。
弱者であることも、病弱であることも、貧困であることも、それはその人の罪の現れではないという前提があることに注目したい。ともすれば弱さを疎まれ蔑まれるようなこの世の中。日本の神道は冷たさを持って、そうである人たちらを見ているのではないか?穢れとして差別の対象にするのではないか?穢れという概念のすべては否定しない。医学的に回避するべきこともある。他人の血を浴びたりする現場では物理的に回避や処置が必要になるのだから。
 そしてまた、そうである人たちを新興宗教の人たちはカモにしているのではないか?

「病者の祈り」は、オールポジティブシンキング!

"悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしりは、心から出て来るからです。
これらのものが人を汚します。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。」"
マタイの福音書 15章19~20節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 私が弱っていることはすぐに知れ渡るような田舎であったからかもしれないが、私を誘いに、エホバの証人は長い年月をかけて訪問して来られたし、実践倫理宏正会の人もさらに輪をかけて足繁く通って来られた。創価学会の人は一回であっさり来なくなった。
 あれをしたらぢごく行きだよ、これをしないとぢごく行きだよ、そう言って脅して来る人物は、神の権限を奪い取る悪業をはたらいているだけなので、気にしなくても良いと思う。宗教というのは人間が動かすものなので、どこでも矛盾した主張を抱えている。

 キリストの目当ては弱い人であると、浄土真宗の僧侶に言われた。それは言い方が見下し気味に取れるけれど、実際のところはその通りなのだ。僧侶だけに鋭い視点だと思う。しかし、自分の弱さを知ってそれを受け入れ、へりくだるのは実はとっても難しい。世の中は頑張っている人が好きだし、応援もする。自分も頑張って人に認められたい、生きた証を残したい、そう思う人も多いだろう。そういう人生を送りたい人たちを否定はしない。善行を心がけ、人にやさしく出来る人は宝だ。
 ただ私は自分の弱さを認め、受け入れざるを得なかった。
やさしくないし、いつもいっぱいいっぱいで、昔のように簡単に人に対して心を開くことが難しくなってしまった。いつも身体の痛みに支配されている。頑張れないと言いつつ今は頑張っていってると思うんだけど...。 
「弱さ」というのがネガティブなイメージで定着しまい、強くなりたいと願っても私自身の中にある言い知れぬ恐怖がいつも足を引っ張って来るように思った。
自分で突っ走っても失敗が目に見えているような半生。失敗しても折れない心、しなやかな心がほしかったけれどそれもやはり難しかった。
弱さというのは結局は他人に見せてはいけないものでしかなく、生き辛くなってしまう。弱くてもいいと言ってもらえる大切なものを知っていなければ、どうなっていたんだろうと思う。
人間関係でつまづいたことも、病を得たことも、すべては自分が粉々になるためだった。それでも自我がいつも頭をもたげる。どうして?どうして?とまた闇に堕ちそうになる。どれだけ粉々になったと思っていても、生きている限り自我を飼い慣らすのは難しい。謙虚にへりくだる態度が私には絶対必要なのに、それくらいでちょうど良い塩梅なのに、どんな目に遭っても忘れそうになる。

 4年前、「パウロの嘆き」という記事をこのアカウントで書いた。今は削除している。一番気になる使徒で、親しみを持っている。旧約聖書のヨブに次ぐ気になる人物。パウロは始めは熱心なユダヤ教徒で、おまけにパリサイ派。今でも残るユダヤ教正統派、バリバリの、チャキチャキのウルトラ保守。キリストの弟子たちや、従う者たちを迫害する者だったけれど、ある日天からの光とともにキリストの声を聞く。
「サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか」

"彼が「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。"
使徒の働き 9章5節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 パウロの名は、キリストの弟子たちと、使徒として働くようになってからの名前である。キリストの声を聞いたパウロはやがて、パレスチナからローマまで、何度も伝道旅行を敢行するまでになる。命がけの旅だった。その旅の途中で新約聖書の福音書以外の13もの書簡を書いた。
パウロは十二使徒や追従する者たちを迫害し、処刑をも厭わないほどの人物だったのに、誰よりも多くの書簡を書いている。そこはとても興味深いと気がついた。チャキチャキのウルトラ保守が、リベラルないし、ウルトラリベラルに鞍替えして異邦人にまで福音をもたらしたというのは凄まじい。
現代でも崇敬の対象であるそのパウロが、数々の書簡で嘆き悲しむ様子に私は違和感をずっと抱えていた。どうして?イエスさまの声を聞き、十二使徒と対面して議論まで交わしたのに、なぜ苦しむのか、信仰は心の安寧を得られるはずではないのか?そんなに素晴らしい体験をしたのになぜ?と。


 喜びなさい、喜び踊りなさい、そう言われても実際は出来ない。
喜んでいてもいつの間にか不満が湧いてくる。心がふたつになることもある。
あのパウロでさえ嘆きを隠さなかった。それなら、こんなちっぽけな私が隠せるわけない!カッコつけなくてもいいんだ、不完全でも情けなくてもオールOKなのだ。
バンザイ!私。
この4年間での、この収穫は大きい。
どんなに苦しくても辛くても、最良よりも最善をもたらそうとしてくださる主に信頼を置く。それには覚悟も必要だった。信頼して委ねるということは思うよりずっと難しい。それをいつも見ていてくれているのが聖霊なのだ。いつも弱い自分を助ける助け主。それなくして信仰告白は不可能。人に言わされることは間違っている。

 ちなみに、劇団四季の「ジーザス・クライスト=スーパースター」の公演が西日本エリアで始まっているらしいけれど、ちょっと嫌。というかかなり嫌。CMが流れるたびに苦々しく思う。イエスはある時代に大熱狂を生んだスーパースターな人間なんかじゃない。本国のブロードウェイでの公演は賛否両論。このストーリーはキリスト教の装いをした新興宗教の土台になる。もし今、ユダがものを言えるなら、「もうやめてくれないか」とクレームを入れるかもしれない。ぬぬぬ。ユダではなく、パウロ視点で脚本を書き直してみてはどうかな。なんて。
 ユダの最大の過ちは主を試したことにある。イエスは公生涯の前に悪魔の誘惑に合うのだけれど、みことば通りに跳ね返した。ユダの過ちはイエスの居場所を密告したことではなく、疑い試したことにある。私の心の中にもユダはいるのだ。
 映画ではウィレム・デフォー主演の「最後の誘惑」も昔観たけれど、感想は似たようなものだった。その他、わりとカジュアルにイエスさまをいじったり馬鹿にしたりする文化を面白がる人は嫌だ。
私は他の信仰の対象をいじったり馬鹿にしたりするような悪い趣味は持っていない。
やめてほしい。悲しい。

 かなり話が逸れた気がする。 
私はずっと前からちゃんと救命胴衣を付けてもらっていたようなものなのだ、ということを言いたくて、つい長々と。

まだ続きそう。

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