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SILENCE 沈黙②

遠藤周作 「沈黙」
 結局、原作の小説に戻ることにした。原作を読めばスコセッシ監督がなぜこの小説を映画化しようと思ったのかがわかる気がした。
小説は読みやすかった。納得出来たので良かったと思う。
ウィレム・デフォー主演の「最後の誘惑」よりも、小説「沈黙」はより深く、より暗く息苦しい物語りだった。「最後の誘惑」での誘惑は、ひたすら甘いものだったような気がする。そういう意味では人間らしい誘惑で、人間の欲望をそのまま映像化してしまったような...。マグダラのマリアを妻に娶り、家庭を築くというのがとても人間らしい。
この映画をよくよく思い出してみると、ラストシーンでは十字架に架けられた姿で、夢から醒めたようにカッと目を見開いていたはずだ。誘惑はひと時の夢だったのか?と思える内容だったけれど、キリストには子孫があった、今でもその末裔が生きているとか、その筋書きは、どうやら好まれることもあるよう。悪用もされる。ラストシーンは曖昧で、強烈なことだけが頭に残ってしまっていた。当時私は、そんなことを考えている人がいるとは思いもよらなかったからだ。
 キリストを人間のように描いた点が批判されていたらしいが、キリストは当時は生身の人間であったことは間違いないことで、人間の中に、神が人間として姿を現したことに重要な意味がある。同じ骨と肉を持ち、感情も持ち、血も通っていた。
それでないと、人間の心の痛み苦しみ、それに加えて、肉体を持っての病や痛み苦しみをイエスさまも知っていたという大きな慰めがなくなってしまう。
私が痛い時、イエスさまはもっとひどいことをされた、この痛みをイエスさまは知っていてくださることを否定されたら、辛く悲しく思ってしまう。
もし、痛みが無くなれば、私はイエスさまを思い出さなくなるかもしれない。
人間的に描くというのは、多分間違っていない。違っていたのは誘惑の内容じゃないか?スコセッシ監督がそう思ったかどうかはわからない。しかし私の中では決着はついた。

映画「ベン・ハー」1959年版
 「沈黙」を読みながら、物語の苦しさはわかっていたものの、調子が良くない時はガツンと来るものがある。重い。辛い。
それで気分転換に、長いこと敬遠してた映画、「ベン・ハー」を鑑賞してみた。(1959年版)
とても良かった。気持ちが晴れ晴れとしたような気がする。この映画のように善と悪がはっきり分かれていて、最後に善が勝つという結末には安心感がある。
実際には善と悪が綺麗に分かれているはずもないのだけど、映画の世界ならどうにでも描けるもの。少しの心の休息にはもってこいだった。

 キリストが生まれた時代、ユダヤの国はローマ帝国の支配下にあった。主人公のジュダ・ベン・ハーも生まれた。ほぼ同い年かもしれない。幼なじみで親友のローマ人メッサラに裏切られ、冤罪を負わされる。貴族の身分から落とされ、奴隷として働いていたある日、ついに暑さで倒れたベン・ハーに、磔刑になる前のキリストが歩み寄り、飲み水をたっぷり与える。出会っている。ベン・ハーの物語の奥でキリストが多くの民に教えを説いてまわっていた。四頭立ての馬車(戦車)で競争するチャリオット場での迫力ある対決も見どころ。ベン・ハーの活躍はもちろんのこと、そして一番良かったことは、キリストは顔を一切見せていないところ。昔の映画人もその辺のデリケートなことはよくわかっていたのかもしれない。ベン・ハーは創作された架空の人物なんだけど、創世記に出てくるヤコブの息子、ヨセフのよう。原作者に訊ねてみないとわからないけれど、兄弟からの裏切りの末に奴隷商人に売り渡されたヨセフ、幼なじみのメッサラに裏切られたベン・ハー、それぞれの立場で勝利を得てのち、捨てるべきものを捨てているところが、ちょっと似ている気がする。

 「沈黙」の中では、ロドリゴが何度も何度もキリストの顔を想像していた。いろいろな宗教絵画や彫像などでキリストを表現したものがあり、私もいろいろなキリストを見てきたのだけど、それはあまり良くないことかもしれないなと感じていた。そうすることによって、心の中に偶像を作ってしまいそうで怖かった。偶像は決して喋らず、その手足は動くことはない。目に見えるものは執着し易くもあり、絶望もし易いように私は思うからであって、特に目の敵にはしていない。ただ、目にするたびに居心地の悪さが付き纏ってしまう。これは今現代に生ぬるくいる私だから思うことかもしれない。何かに縋りたい気持ちもは否定出来ない。そんな資格もない。

 ロドリゴはゲッセマネでのキリストと自分を重ね合わせる。血の汗を流しながら必死に祈るキリストを横に、弟子たちは眠り込んでいた。磔刑になる前夜のこと。
ロドリゴは、劣悪な環境で忍耐に忍耐を重ね、粗末な食事で、司祭としての生き方ができず義務も果たせずに長く牢に捨て置かれ、やがて棄教を迫る拷問が待ち構えていると悟っている。その上、切支丹の教えを受け入れた貧しい農民たちが処刑されていくのをこれでもかと見せつけられる。
物語の終盤には、踏み絵を踏み、転ぶと宣言した者までも拷問にかける。すでに形だけでも奉行所に対して、なんの罪も咎もなかったのに。これはパードレがそうさせておるのじゃと通辞や筑後守は言い放つ。キリスト教を根絶やしにしようと苦しめている日本の筆頭は筑後守なのに。今こそ神である主は沈黙を破るべきではないのか...。

 本当に神はいるのか、祈りは本当に聞かれるのか、もしそれが全部出鱈目なら滑稽な話だ、目の前で殉教していったじっさまやモキチたち、その死はなんだったのかという葛藤が続く。その葛藤はキリスト者でなくても持つ苦しい葛藤なんじゃないか。
例えば、なぜ災害は起きるのか、なぜ死ななければならなかったのか、なぜこんなひどい事件が起こるのか、なぜ?なぜ?
小説の中で気がついたのは、ロドリゴもやはり、旧約聖書のヨブ記のヨブにも想い及ぶくだりがあった点。ヨブは聖者だったのに厳しい試練に遭い、それでも主を褒め称えた。しかしヨブのようにはいかないんだろうなと薄々思うところも共感する。

 キチジローのモデルはイスカリオテのユダのようである。物語にもあるように、キチジローをどう捉えたら良いのかとロドリゴは考えていた。キリストは裏切り者のユダをどう捉えていたのかとロドリゴはずっと以前から疑問に思っていたという。
旧約聖書の預言がその通りに成就するなら、イスカリオテのユダの運命も決まっていたのだろう。もしかしたらユダの代わりになる人物はごまんといたと思われる。
私はキチジローであり、ユダである、そう思うことがある。素直なペテロでさえ、イエスさまを「知らない人」と三度言った。鶏が鳴くまでに。主は、人間の弱さはとっくに承知のことだった。ユダは命を絶った日からすでに主の扱いとなり、知ることが出来ない領域にいると私は思う。わからないことはわからない。個人の内面は他人にはわからなくても、全てのことはいつもいつまでも、主は、手に取るように理解してくださる。

 ロドリゴに降りかかる誘惑はまったく甘くない。恐怖と緊張、絶望と希望、苦しみと悲しみにまみれていた。転ぶ、棄教するということは悪魔の誘惑ではないか、すべてを裏切ることになる、生きて来たすべてを無にしてしまうかもしれない。精神的に大き過ぎる試練。神父、司祭としての責任感も加わり、踏み絵は踏んでいいものだと読み手のこちら側でも、簡単に言うことも出来ないほど苦しんでいた。結末は書かないほうがいいかな。映画を観てとは言えない。かなり疲れることになる。

 日本の伴天連追放令については、日本の国を守るためには必要だったかもしれない。もしヨーロッパ諸国の好きにさせていたら、日本も植民地にされて、今の日本の姿はなかったかもしれない。改宗させられるだけではなく、搾取の対象となり奪われるままに奪われ、奴隷として貿易船に乗せられてどこかに売られてしまう運命か、あるいは大勢が虐殺されていたかもしれない。多分身分が高い者から、かもしれない。ないとは言い切れない。そうやってヨーロッパ諸国は植民地を増やして来た。国益というもののために。近代になっても、「無智蒙味な土民大衆を、その恐るべき生活状態から救い出す」(その裏は掠奪)を旗に進めていた。戦争も引き起こした。江戸幕府はオランダとの物品の貿易のみを許可し、鎖国を決めた。筑後守は幕府の命令に沿って、忠実に仕事をしたと言える。

 フランシスコ・ザビエルより受けた教えは、順調に根付いて、成長をして来たと思われたが、実は日本独自の解釈にすり替わっていたのだとフェレイラはロドリゴに教えた。多分、今でも仏教的な目線でキリスト教を理解しようと努める向きもある。
カトリックの様式は日本の仏教にも似ているところがあると思う。
マリア像やロザリオも、菩薩像や数珠に似ていなくもない。しかしそれを比べてどうこういうのは意味が無い。大局的に見て、江戸時代にキリスト教はまだ、目に見えて実を結ぶような時代ではなかったんだなと思う。日本は良いものを取り入れて日本独自のものにすることに長けているから、歪みは避けられないかもしれない。

 人権もなく、人間扱いされない貧しい農民たちが、初めて人間扱いしてくれたパードレたちに感謝して、そばにいて支えてくれたことに感動したんだと思う。
種はすっかりなくなっていない。ひっそりと守られて来た。

 この小説を読んで良かった。
今ある悩みや苦しみは、私一人の経験ではなく、長い長い時の中ではどんな人でも困難や試練に遭うし、時には、祈りは聞かれない、主はいないと嘆いたとしても、それは自分だけの経験じゃない、いつも共に痛みを負ってくださる主を忘れるな、そう教わった気がするからだ。

 映画の「最後の誘惑」も、小説の「沈黙」も、映画の「沈黙 SILENCE」も、その中の主人公は、信仰を捨ててはいないと思うんだ...。捨てたつもりでも離れたつもりでも、実はそうじゃないことを信じているからだ。主は決してご自分の民を見捨てない。
 遠藤周作のように、父なる神、母なる神、そう分けて考えたことはなかった。想像しても実感はない。父なる神は罰するだけの神ではなく、惜しみなく赦す、慈悲深く憐れみ深い神であるからだ。
フェレイラが牢屋に彫った、ラテン語のLAUDATE EUM、日本語で「彼を、讃えよ」
「主を、讃えよ」なら、LAUDATE DEUM。通辞に咎められないようにDは付けなかった?

 もう磔刑のキリストの映画は観たくない。

END.

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