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私のうつ病は。②

 3ヶ月の休職明け以降の仕事は、ほとんど意味がないものとしか思えず、何をするんだかわからない図面のファイルを探すためにはPCで検索してファイルの番号を調べる必要があるのだけはわかっていた。それなのにPCも使わせてもらえなくなっていた。ファイルはロッカー20本くらいに詰め込まれていたり、無造作にロッカーの上に積まれたダンボールに詰め込まれていたりで一枚の図面を探すのにも一苦労だった。向かい合わせたロッカーの扉、2枚を開けて、その扉に隠れてぼーっとして、逃げたりしていた。

 何やってんだろう。もう辞めると言おう。
それまでは、私が辞めたら事務の人が休めなくなる、迷惑をかける、まとまった休みを取って旅行も出来て助かるって前に言われたから...ここで辞めたら這い上がれなくなる、すぐ辞めるつもりもなかったし、辞めるということに抵抗感があった。
でも今やってる仕事は何?今私がいなくなっても問題ないじゃないか?私がいてももう以前のように事務の人達との仕事から外されているから、いてもいなくても同じじゃないか?なんで辞められないと思い込んでいたのだろう?もう辞めよう、自己都合で退職。3ヶ月間はぼんやり過ごして、少々の失業手当を受給する。
惨めな気持ちでいっぱいだった。どうやって過ごしたのか、今はよく思い出せない。

 仕事はあっさり辞めた後、娘の担任の先生と一緒に市の相談会に出向いたりしていた。不安な気持ちでいっぱいだった。
現在は自閉症スペクトラム障害(ASD)という診断名になっているものの、知的には境界線にあり、通常クラスのままでやって来たことを見直す必要があった。
小学3年生まで、大人しい性格やその他不安なことを個人面談で訊いて見るものの、「問題ないです」「少し経ってから変わる子もいます、心配ないです」と言われていた。私が再就職するまでは何もわからず、4年生になって、忘れ物が目立つと担任から言われ、「お母さん、頑張って下さい」と私が注意をしてくれと言われた。私の問題でもあるのは確かではある。

 就学前健診での様子は微妙だった。保健師さんの質問には答えず、見せられた絵本をニコニコしてページをめくっていた娘。きちんと椅子に座れて、無表情でもなく、暴れもせず、ニコニコ。
保健師さんは「今日は気分が乗らないかな?」という評価で終わったことを思い出す。
療育手帳も持っていない。なので療育というのはどういう育て方なのかもわかっていなかった。すでに生まれて8年目。これは8年の空白なのではないか。
恐ろしかった。どうやって取り戻したらいいのだろう。今は学校だけが頼りだ、とにかく先生にも協力してもらわなければ、私も腰を据えて向かい合わなければと考えた。そのためには再就職なんかして、うつ病になっている場合じゃなかったんだ。
今まで娘の何を見ていたんだろう。謝っても謝りきれない。

 小学5年生になった時に、通常のクラスと交流する特別支援学級へ。
5年生から小学校卒業するまで学校の校長先生と支援学級の先生にべったりお世話になってしまった。夫から「別れよう、離婚してくれ、あんたを見ているとイライラする」と言われる。娘は小学校6年生になっていた。
うつ状態で、2年間は夫も我慢をしてくれていた。
私が何も出来なくても。たまには外の空気を吸って、日光に当たろうよとドライブに誘ってくれたり、2人で買い物に出て、ふらふら歩いていた私の手を取って、しっかりしてって手をつないで歩いてくれた夫はもういない。
お風呂にも入らず不潔にしていてもぼーっとしたまま、ただ娘を学校に送り出すためだけに生きていた。あとは何をしていただろう?
よく思い出せない。

続く。

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