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私のうつ病は。①

 私はここ5、6年、甲状腺機能が働いていない橋本病との診断を受けて、ホルモン充填のためチラーヂンを毎日服用している。チラーヂンs75mg+12.5mg。
この橋本病も気力が失われ、うつ病の症状とそっくりな状態になることがわかった。
最初から甲状腺のせいだったかどうかはわからない。うつ闘病、10年くらい過ぎた頃に、体が痛みだし、関節も腫れて痛みが強くなり、特に背中の痛みが強くて、あらゆる病気を疑い、ドクターショッピングを繰り返したけれど原因がわからず、線維筋痛症という診断名がついた。第一選択薬のリリカカプセルはまったく効かなかったので治療は諦めた。関節痛を和らげるために強い痛み止めと免疫抑制剤を飲んでいたら黄疸が出て、免疫抑制剤のせいであらゆるばい菌を恐れ、それだけで精神に異常をきたしそうになって服用はやめてしまった。
痛みの原因を探る過程で、甲状腺機能低下症であることがわかった。専門クリニックにて橋本病が確定した。

 ところで、どんな境遇にいてもうつ病にならない人もいるし、なんでそんなことでうつ病になるの?ということもある。だから、うつ病の患者同士のグループカウンセリングなんてのは成り立たないと私は思っている。
 生育歴もそれぞれ違う。きっかけもそれぞれ違う。
今では血液検査でうつ病か否かわかると言われた。
もっとちゃんと話を聞けばよかったけれど、おそらく甲状腺ホルモンの値でもわかる場合があるということかと自己判断した。今度ちゃんと聞いてみようと思う。
 私がうつ病と診断されたのはかれこれ20年も前のこと。その頃は血液検査で判断するということはなかった。

 娘が小学校3年生になってから再就職して働き始めた。デスクワークの仕事には10年以上ブランクがあったものの、もう大丈夫、人が怖いというのは出産後には消えていた。世の中の赤ちゃん、みんな可愛い、みんな最初は可愛い赤ちゃんだったんだって、ちょっとラリってたような感じで。お酒も強くなった。飲んでいる時に頭の中の隅をきっちりネジ締めをして、そこの小さな領域だけは解放せずに、自我を閉じこめて、私は酔ってもまっすぐ歩ける、記憶も失くさないという暗示をかける。私より酔ってる女性がいたらしっかり手を握り、危ない目に遭わないよう、タクシーに押し込めて送り出したり、自宅まで送り届けるといったことまで出来たし大丈夫だと。

 しかし仕事の内容は様変わりしていてびっくりした。
大雑把にいうなら、3人ぐらいで1日でこなす仕事は、PCを使って一人で午前中に終えて当たり前な環境になっていた。家電量販店にいた昔の仕事は、人手が多すぎたことが問題だと思っていた。でもそんな時代はとっくに終わっていた。
就職氷河期の原因の一つは、PCの普及率が高まったことだろう。

 私の頭が追いつかなかった。しかも産休を取る人の代わりとして、3ヶ月で一通りの仕事を覚えてやりこなさなければならず、頭がパニックになっていった。失敗もした。仕事は夕方4時までだったが、帰宅するとどっと疲れて横になるとすぐ寝てしまう。それからは起きられない。動けない。そのことでよく揉めた。夕飯の支度も滞る。
まだ大丈夫じゃなかったのかもしれなかった。ゆっくりと沈んでいった。
私はおかしい、このままだと本当に死にたくなりそうだ、どこかで診てもらわなければと思った。
 芸能人がうつ病だったと告白したりで、おかしな偏見は持っていなかった。うつ病は心が風邪をひいている状態。もしかして自分もそうなのか?

 そのことと同時に、娘は学校での生活が上手くいっておらず、私もどうして良いのか分からず、学校も同じくわからないというような調子で、どうしようもなく、市の相談窓口に行った。「多分娘さんはお友だちに誤解されている、病院を紹介するので受診を」とのことだった。しばらくして、紹介された病院で、娘は高機能自閉症との診断を受けた。
思い起こせば、乳幼児期の娘は育てやすかった。ミラー行動、バイバイと振る手は自分の方に手のひらを向けて相手に手の甲を見せたことはあったけれどすぐに治った。おとなしい子かな?くらいで、ひらがなカタカナは幼稚園前に覚えて、車のカーナビの使い方もマスターしていたので、発達に問題があるとは思っていなかったので診断は衝撃的だった。

 仕事をしていても手に付かず、ショートカットの髪でも邪魔になって、髪の毛を小さい束をいくつも作って輪ゴムでまとめ、頭が輪ゴムだらけになっていた。それを作ってからでないとなにも出来なかった。側から見たら異様な姿だったと思う。
家では朝は毎日バタバタ。夕方は、台所に立っても包丁を持ったまま、何をしたらいいのかわからず、ぼんやり立っていただけだった。家庭生活が立ち行かない。何もかもがお手上げ状態。実家の手助けは見込めなかった。とりあえず私もどこかで何かの診断をつけてもらって、なんとか現状を打破しよう思った。
仕事終わりに居住区で一件しかない心療内科にとりあえず行く事に決めた。
うつ病と診断されたのは、仕事の内容と家事や、娘の学校のこと、自治会や子ども会の行事などで自分の体力も気力も落ちてキャパオーバーになったことだと思う。病名がついてホッとしていた。敵が何なのかわかっただけでも気持ちは救われた。だけどこれから長い時間を要することは予測していなかった。40代、50代、そして今現在まで続く。救われた気持ちは一瞬で終わる。家族の理解が得られないとぢごくは終わらない。

 この頃を思い出して詳しく書くことは辛い。
仕事は3ヶ月休職して傷病手当を受けていた。休職が明けて職場に戻っても、その3ヶ月間、事務所は私がいなくてもちゃんと回っていた。担当していた仕事は全部なくなった。また私は使いものにならないと判断されたんだと思い知った。与えられた仕事は、わけがわからない図面を見て、わけがわからないものを数えて...あの仕事はいったい何だったんだ?
最初の薬は、パキシル、ドグマチール、ハルシオン。ドグマチールは胃薬として出たものだが、うつ病にも効くとのことでなるほどよく効いた。しかし副作用でかなり太った。「見る影もない、テレビ観ながら食べてばっかりやったんか?」とおばちゃんに言われた。ぬぼーっとしてる私を見て、社長が叱咤激励をして来たがすごい屈辱感しかなく泣いてしまう。会社は解雇は言い出せない。自分から辞めると言い出さない限りは。

続く。

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