「編集感覚」って何だろう?②〜「発意」と「抑制」のプロセスから、コアを生み出す
前回に引き続き、「編集感覚ってなに?」「なぜコアを引き出すの?」というところにアプローチしていきたいと思います。
編集感覚というのは、本や雑誌をつくるときに必要な能力、スキルのようにイメージしていたかもしれませんが、僕にとって編集するとは、この世界を編集的な視点でとらえ、いまあるものを再構築すること。
再構築=編みなおす。。。じつはそれって、誰もが日常で(無意識のうちに)やっていることだと思うんですね。
それは、「ふと目が止まる」ということで生じる、認識の変化が入口になります。
いままで目が止まらなかったことに意識が向かう。。。その結果、世界の見え方が変わる、それが再構築の第一歩。たとえわずかでも、その微細な動きを表現することができれば、一編の物語が生まれるかもしれない。
つまり、何かを生み出すには、こうした無意識の編みなおしを自覚的に、意図的にやっていくことがまず求められるわけです。
その意味では、編集とは、すでにあるものを編みなおすということ。
言葉の通りに訳すなら、「編んで集める」のが編集ですが、「すでにそこにある」以上、編集=編みなおすのほうがしっくりくると思うわけです。
この編みなおしで大事なのが、コアを引き出すということ。
でも、なぜコアなのか? 前回、創作のプロセスを「発意と抑制のプロセスを稼働させる」と表現してみました。ちょっとわかりづらかった気がするので、補足していくと。。。
発意というのは、湧き上がってくる思いを「とりあえず出してみる」ということ。前回も書きましたが、自分の中になんらか抑圧された思いがある場合、この出すという行為は、癒しにもなり、救いにもなる。。。
いまのSNSは、この「とりあえず出す」を最大化することで、誰もが自己表現できる自由空間として受け入れられ、まるで心のなかが可視化されるような形で肥大化していったわけですが。。。
ただ感情を吐き出せば、それが表現になるかというと、そうとは言えない。
それもまた、表現と言えば表現だけど。。。でも、こうしたむき身の感情はときに人を傷つけ、誤解や偏見を生みやすい。自己の解放につなげるには、「とりあえず出す」以上の何かが必要になってくる。。。
なぜか? 吐き出した感情、あるいは知識、情報、思想といったものが、自分が本当に伝えたい思いとは必ずしも言えないからです。
自分が本当に伝えたいものは、吐き出された感情や思考の奥に隠れている、そのコアをどう引き出していくか? 僕はそこに「いったん保留する」、抑制のプロセスが必要になってくると感じています。
編集というプロセスを通して、「とりあえず出す」と「いったん保留」するを繰り返し、言葉や思いを重ねていく。
たとえば、誰かと対話したら(インタビュー、取材と言い換えてもいいけれど)、まずそれを思い出してみる。
思い出しつつ、音源を聞き返す。あるいは文字に起こしてみる。
文字に起こしながら、わかりやすい形にリライトしてみる。
図やイラストなどを盛り込みながら、読みやすくレイアウトしてみる。
レイアウトされたゲラ(もはや死語みたいな響きがするけど)を、関わっている人たちに回覧して、さらに言葉や文字を重ねてみる。。。
こうした重なり合いのなかで、あぶくのように湧き上がっていた感情や思考は沈澱していき、文字と文字の間、行と行の間から、ポコポコと隠れていた「思い」や「願い」が浮かび上がってくる。
前回、こんなことを書いたけれども、ポコポコと浮かび上がってきたものを文字に変えるということは、雑味のような思考や感情を掻き分けて、「誰もが感じている何か」が取り出す行為なのかもしれない。
誰もが感じていることを、誰かが持っていた。誰かが感じていたことを、誰もが感じていた。創作ということで言えば、それこそがカタルシスであり。。。美しさの源泉であると感じるのです。
参考までに、神経心理学者の山鳥重さんが概念化している「こころのメカニズム」について紹介しましょう。
山鳥さんは、学術的な背景を重ねながら、こころの働きを「知・情・意」という3つの要素とらえているわけですが。。。
ちょっと面白いなと感じるのは、このうちの情を「感情」と「コア感情」の2つに分けているという点。
意識化されていないコアな感情がこころの根底にあり、それが感情として浮かび上がり、そこから知の領域につながることで、イメージ(心像)が生まれ、言葉が重なることで「思い」が生まれる。
要は、思考(イメージ)と感情の奥にある、普段はなかなか認識できないコア。。。それが顕在化した思いの源流、原型にあるもの、僕の言葉と重ねるならば、「誰もが感じている何か」。
対話を重ね、生まれた言葉をさら編集していく過程で、顕在化したものの奥にある「思い」や「願い」が浮かび上がる。
それは、とりあえず出すだけでなく、いったん保留する。。。そうした発意と抑制の繰り返しがあってこそ言葉や文字として見い出され、多くの人と共有できる物語(メッセージ)に変わっていく。。。
さて、僕がイメージする編集のプロセス、そこで生じるであろう編集感覚についてたどってきました。コアを引き出すことの意味も伝えられたとは思いますが。。。僕が問いたいのは、こうして生まれるメディアは過剰なもの、トランザクションであるということ。
何かをつくりたい、書きたい、描きたい。。。わざわざそんな過剰なことをなぜしたいと思うのか? いや、本当にしたいと思っているのか? したいと思うなら、その動機はどこにある??
創作の導入にあたる「対話」は日常の一部であり、わざわざインタビューとか取材という畏まった場をつくらなくても、相互関係(インタラクション)から相互理解は生まれるでしょう。
それは生きる営みの大事な一部であるわけですが、つくるということは、その領域を逸脱した過剰な欲望のように感じます。
この美しさすら内包した欲望を、まずは文字という表現に変えていく。。。それが僕にとっての編集、コアとつながり、この世界を編みなおすということ、コア・ブランディングそのものなのです。
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→『フードジャーニー〜食べて生きて、旅をして、私たちは「日本人」になった』 https://food-journey.selfmaintenance.org
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●対話についてもっと知りたい方はこちら
→『ことばの焚き火 ダイアローグ・イン・デイリーライフ』