見出し画像

蛇蝎の心って?

花には分別心はない。
自分の姿は小さく貧相だと卑下していない。
花のなかの王様だとうぬぼれていない。
無分別心、純粋生命の輝きの中にある。
人間の分別心(自我)は、
自他差別の心、
優劣の中に競い合い、
生命を醜く狭く、
小さく閉ざして生きる罪業の身である。
        神戸和麿

花は
自分が花であるという自覚も
どういう存在かという
他覚もないだろう

ただ
あるがままに
時が来たら咲き
時が来たら散る

そこにあるのは
自利利他円満

たとえ
鳥がついばみ花弁がボロボロになろうが
予定よりも早く散ることになろうが
それだけのことであり
そこに恨みもなく
隣の花が殺られたから
あの鳥が来たら仕返ししてやる
なんてこともない

う〜ん
そんなふうにはなれないな

人間である以上は
分別、差別、比較する心からははなれられない
良し悪しを付けずにはいられない


悪いと判断した時に
一番被害を被るのは自分自身だ

自分が善であることを
他を悪にすることによって
力づくで証明できたとしても
悪に対しての怒りや苛立ちは消えない
まったくいいことはない
でも
そこから離れることはできない

わかっちゃいるけどやめられない

有名な「スーダラ節」の一節
昨日、NHKでも植木等と「スーダラ節」を取り上げた番組をやっていたな

わかっちゃいるけどやめられないのが人間
それを開き直るのではなく
悲しむことができる
悩むことができる
落ち込むことができるのも人間

「わかっちゃいることがやめられない」
そういうことが生きていくことなんだと
そこに気づくことができるのが人間

花にはなれない
鳥にも犬にも猫にもなれはしない

どこまでいっても
オイラは人間でしかなく
人間であることを大事に生きていくしかないんだ
そういう宣言だと思う
「わかっちゃいるけどやめられない」

政治家になって神になった気になっている
スーパースターになって神になった気になっている
会社の社長になって神になった気になっている

気になって
人間であることを捨て
鬼になる

鬼の住処は
地獄だよ

人間でしかない
悲しめば
自ずと
そこに喜びと
慈しみが湧いてくる

花が花であること
鳥が鳥であること
それを誇らず
それを憂うことなくある姿を
自らに重ね合わせ
「わたし」という
人間の欲が作り描いている形ではなく
命そのものに
そっと感謝ができることもあるかな

言い切れないよね
「できることがある!」って
なんせ
まだ今のところは経験がないから

また話が飛びます😅

昨日の植木等と「スーダラ節」の番組を見た方は
そこで
「わかっちゃいるけどやめられない」というのは
親鸞の生き方そのものだ
ということが語られ
親鸞の言葉が紹介されたのを覚えているだろうか
別に覚えている必要もないのだが
話のツナギとしてちょっと言ってみただけなので😅

そこで紹介されたのは
親鸞が書いた和文の詩「和讃」という中の一首から

悪性さらにやめがたし
こころは蛇蠍(じゃかつ)のごとくなり

ということば

これが「わかっちゃいるけどやめられない」ということだと。
で紹介され箇所、このあとに続きがある

修善も雑毒なるゆえに
虚仮の行とぞなづけたる

というのだ。
ヘビ(毒蛇)やサソリ(蠍)のような心の自分が
どんなに善だと思ってしていることでも
そこには毒(欲や怒りや愚痴)が伴うので
結局ウソクサイよね。
というのが親鸞が生きた道だった。

その時は
もちろんなんでも一生懸命
良いと思ってやる
でもそこで
「ウソクサッ!」と自身の声が聞こえる

でも
そんなウソクサイ自分なのに
生きてあることを
許してくれる

花はその姿を
「ウソクサイクソ野郎だから、おまえには醜い姿しか見せねぇ」
とは言わずに
平等に美しい姿も枯れゆく姿も見せてくれる

そう思うと
少しだけ優しくなれる
その瞬間だけでしかないかもしれないが
いい笑顔ができる

これは
自らが
「わかちゃいるけどやめられない」人間であること
「こころが蛇蠍」のわたしであること
それを受け入れることができる人間だからこそ

うそはよくない

そうおもえないならそれでいい

無理にそう思うのは
そう思っていないことだし

でも
蛇蝎とまではいかないけど
「あぁ、ウソクセェなぁ〜」
くらいは思えることがある

その時がチャンスだ



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?