母とわたしの、彩りべんとう。
母との記憶は数え切れないほどあるけれど、忘れられない記憶を綴ってみる。
幼い頃に母が作ってくれた、おべんとうが大好きだった。
透明のフタにキャラクターがプリントされたプラスチックの小さなおべんとう箱に、ごはんをしきつめて、さやえんどうでこしらえたはっぱ、大好きなハンバーグ、その上にはハムやチーズ、たまごなどで作ったお花が咲いていた。
流行りのキャラ弁ほどの大層なものではないけれど、工夫をこらした彩りゆたかな母の作ってくれたおべんとうが自慢だった。
うちの家はとても重く苦しい荷物を、母が背負う家だった。
祖母は身体の左半身が全く動かない要介護認定の状態で、父は心の病を患っていた。
そんなことはおかまいなしに、幼い兄とわたしはとにかくワガママ放題で、かなり手がかかったと思う。
祖母の介護に、父と幼いわたしたちの世話で、母はいつもどこか余裕がなさそうだった。
そんな中でも母は早起きをして、父が持つものとは中身の違う、可愛いおべんとうをわたしに持たせてくれた。
母は人一倍厳しい人だった。
勉強や習い事、礼儀のこと、他のことでもこれまでたくさん叱られた。
中学生の頃の門限は18時。
大好きな友だちとの遠出の遊びや花火大会、はじめて好きな人と夜景を見に行った日など、わたしはよく門限に間に合わせることが出来ずにいた。
わたしにとっては、門限よりも大事なことだった。
母は怒ると容赦がなく、わたしは逃げ場をなくした。
母がどんどん苦手な存在になっていった。
反発心からわたしは暴力みたいなことばを、何度も母に浴びせた。
その頃から、母はおべんとうにも、やる気のない日が何度もあったように思う。
わたしも母のおべんとうを持つことが恥ずかしく、コンビニのごはんの方がいいと思っていた。
母との心の距離がどんどん離れていった。
時は流れ、10代の終わりのころに、フレンチのレストランでホールスタッフのアルバイトをしていた。
土日に婚礼をやっているレストランで、バイトの日は朝から晩まで忙しく働いた。
バイトは大変だったけど、嬉しい瞬間もたくさんあった。
新郎新婦の両親卓をまかされたとき、わずかな時間の中でご家族のみなさんと、色んなお話をするのが好きだった。
結婚式の終わりにご両親が、「ありがとうね」って言いながら、わたしを抱きしめてくれることがあり、この瞬間のために働いている感覚があった。
進路で迷う新郎の妹さんに、「あなたみたいな仕事がしたい」と言われたときは「バイトだしまだまだだけど」と思いながらも、10代のわたしにとって、格別な褒めことばだった。
色んな方の結婚式にスタッフとして参加をして、様々な家族の幸せのお手伝いをさせてもらって、母への感謝と反省の気持ちがこみ上げた。
「母とちゃんと向き合いたい」と強く思った。
大人になって、久しぶりにおべんとうを作る。上手くできた日は、Instagramに投稿をしたりもする。
幼い頃に大好きだった、母の彩りゆたかなおべんとうを思い出しながら。
これからはもっと、母への感謝を素直に伝えていかなくちゃな。
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