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自分の気持ちを声に出して話す事②~ブレない自分と自他尊重~



note記事を書いていて、前の記事の後半に書いたような、悩み苦しんでいた頃、辛さの極みの頃には、自分自身の中に思い浮かびもしなかった捉え方が、ふと、湧きました。

...伝わらないのが、普通。
伝わらないのが、そもそも、なのでは...と。
伝わらない、のが、ニュートラルなのかもしれない...と。

私は、ずっと、話す相手に、自分の気持ちを伝えたくても伝わらないと悩んで、自分は話せないと悩んで、
相手にありのままを理解してほしいのに...理解してもらえない...、苦しいと悩んで、苦し過ぎる、生きづらい...と思っていました。
理解してほしいのに...理解してもらえない...苦しい...。

ここまで来て、
...あれ?...、...ここはこの間通ったと思いました。心の中(か脳内か)の登りの螺旋階段で、通った所...、
...見た景色...、そんなふうに思いました。


ありのままを理解してほしい。
これは、私が父親に対して、ずっと囚われ思っていた事で、いつか理解してもらおう...と思っていた事でした。
でも、理解してもらおうとしなくてもいいと、理解してもらおうと思わなくてもいいと、先日気づいて手放したエゴの部分でした。(note記事 私は私を生きていい~父親からの呪縛が解けた日~)
私は、父親から離れた後も、父親に、自分のありのままを理解してもらえないと生きられない、と思っていました。
それと同じでした。私は会話する相手に自分のありのままを理解してもらえないと生きられない、(会話する相手に自分の伝えたい気持ちが伝えたいように伝わらないと苦しい、辛い、生きづらい)、という思いに、囚われていっていました。

このどちらの思いも、私が自分で自分の身を守って生きていく為に必要だと、勝手に思い込んだ、エゴでした。
つまり、私の思い込み(の1つ)は、自分が安心して心の平穏を得て生きていく為には、父親・話す相手、から自分の考え方や生き方を理解してもらう事が必要だ。
私が伸び伸びと心から気持ちを楽にして生きていく為には、父親・話す相手に、誤解なくありのままを理解してもらう事が必要だ。 という事でした。


(自分の身を守る為、自分が安心安全に生きていく為の思い込み=エゴ。と私は捉えています。)


エゴは、自分が自分の身を守る為に思い込んだ事なので、時に、私に、それがないと生きられないよ、ないと死んでしまうかもよ、と、恐れや不安を感じさせました。
それが、私の場合は、話す相手に伝えたいように伝わらずに、理解してもらえないなら...不安...怖い...と思う事で、辛さの極みの時が究極にエゴが拡大した時で、私は自分の気持ちをどんなに話しても、誰にも理解してもらえないかもしれない、理解してもらえなかったらもう耐えられない...、死んでしまう...と、恐怖にまで感じた事でした。
ニュートラルに捉えたら、ニュートラルに考えたら、そんな事は無いのです。
何の偏りもなく、ニュートラルに考えたら、誰かに何かを理解してもらえなくても、理解してもらえなくても全然普通に生きていけるのに、私の捉え方が偏っていた故の苦しみだったんです。
その時は捉え方の偏りに全く気づかずに、誰にも理解してもらえなかったら...私は死んでしまうかも...と、本当に本当に、苦しみ悶えていたのです。
(もら'え'ない≠もら'わ'ない)


父親からの呪縛が解けたと思った時と同様に、
話す相手からも、あ...そうか、理解してもらおうと思わなくていいんだ...!
どうしても理解してもらえないといけない、とか、思わなくてもよかったんだ...、と気づきました。
理解してもらおうと思わなくてもいい。理解してもらおうとしなくていい。
「そう大丈夫。私が私であるだけ。誰に理解してもらえなくても、そもそもそれが普通で安全安心に生きられる。みんながそう。」
そう思った途端、そう気づいた瞬間、思い込みがポロリと外れて、気持ちが、くるりと楽になりました。悩みの根本が、書き換わった感じでした。

私は、肩に力を入れ過ぎていました。相手にきちんと伝えないといけない、と。気持ちを正しく伝えないと、と思って、思い過ぎて、よけいに話せなくなっていたと思いました。
私と相手は別の個なんだもの、当たり前に同じ存在ではないのだから、伝えたい事の全てを理解してもらうとか、相手の気持ち全てを理解する事とか、そもそもそれが難しい事なんだ。偏りなんだ。
ありのまますべてを理解してほしいなんて、それがそもそも最初から無理なんだ。
だから、わからない、伝わらない、理解できない、そこがベースで、そこからがスタートで、
分かり合えないから、理解し合えないからこそ、分かり合う為に、理解し合う為に、真摯に、時にはフランクに伝え合う事が大事なんだと思いました。

そして、ここまで来て、また、あれ...?と。
あれ?ここは...先生との事と同じ...、と思いました。先日の、子供の元担任の先生と話した後に思った事と、同じ事を思っていると思いました。

あの日、私は一生懸命伝えて、先生には親身に本当に傾聴してもらえたのに、伝わらない感覚が残りました。
伝えたい側と、聴きたい側、お互いにそういう思いと姿勢だったはずなのに、あの日、なぜか圧倒的に伝わらない感覚を感じました。
だから、きっと、やっぱり普通がこうで、知り合いだろうと、仲の良い友人だろうと、親子だろうと、夫婦だろうと、恋人だろうと、もしも初対面なら尚更に、それぞれ全く違う人生を生きてきて、違う体験をして生きて来て、それぞれ異なる考え、解釈、価値観、感覚などを持っているのだから、会話して、相手に、気持ちや話しが思うように伝わらなくても、それはそもそも当たり前なんだと。
伝えるという事は、誰にとっても難しい事なんだと思いました。だから、伝える努力、聴く努力がいるんだな...と思いました。


本当に何かを伝えたかったら、お互いに理解し合えるように会話する事。
お互いに理解し合おうとする姿勢が大切で、相手の話しをよく聴いて、自分の話しもどう伝えたら相手にわかってもらいやすいか、伝わりやすいか等を考えて伝える必要がある事。
希望する全部は伝わりきらなくても、心を開いて、伝え合う努力が大切だと思いました。
自分が自分の話す事に意識を向け過ぎないで、伝えたいという気持ちが先行し過ぎないで、相手の話す言葉をよく聴いて、その上で話す事。
先生と話しをした後日、アサーティブという自他尊重のコミュニケーション方法がある事を知りました。

私は、話すスキルが低いと思います。いつもそう感じる度に、残念に思ってしまいます。ただ、それを悲観しなくてもいいのかな...、とも思いました。
生育環境は、変えられない、どうする事も出来ないものでした。そこから、自分の意思関係なく、身に着けてしまった癖や思い込みがありました。
長年、そのまま生きてきてしまいました。でも、それに気づいたから、必要ならば、今後、少しずつ変えていけばいいと思いました。
そもそも伝えるという事は、誰にとっても難しい事なんだから、私1人だけ、誰にも伝えられない、話しが出来ないと、嘆かなくてもいいのかもしれない、と思いました。
私は、誰かと話す時に、出来るだけ気持ちを分かり合いたいし、伝え合いたいと思います。
相手が何を言いたいか、何を伝えたいか、相手の気持ちに思いを馳せて聴きたいし、私の気持ちも、出来るだけ、相手に誤解の無いように伝えたいと思います。
だから、今よりも、話すスキルを向上させられるように、地道に努力していきたいと思いました。
伝え合う為に、これから、話すスキルをより良く身に着けていけばいい。自他尊重のコミュニケーション能力を学んで育てていきたいと思いました。

そして、これはまだ考えながらの今ですが...、
伝えたい為に話すんですが、伝えたい思いに強く囚われ過ぎずに、伝わらなくても大丈夫というような心持ちで話し伝える事が、結果的に良いのかもしれない...と思いました。
何回か話し伝える事が可能な場合なら、
そもそも、すぐには伝わらない事だと思って話すくらいの話し方...。
最初から、どうせ伝わらないとか、きっと伝わらないと諦めて話すという事ではなくて、心身の力を抜いて、リラックスして話す感じ。
伝える事に、執着しない、という事でしょうか。
伝わるという、結果にも執着しない、という事でしょうか。
伝える事は大事で、伝えたい為に、相互理解する為に話すけど、
伝わらなくても良いというような心持ちで話し。
分かり合う為に話し合うけど、無理はせず、
分かり合えない事も視野に入れて話す感じ。
分かり合えて当たり前、では無いという事。
話しても、話し合っても、伝え合っても、分かり合えない時もある。相互理解出来ない、仕方の無い時も、ある。
でも伝え合い、話し合えて、聞いてくれた相手への感謝は忘れない。
その時に分かり合えなかったとしても、もしかして、いつか分かり合えるかもしれない。
対人関係も、あくまでもニュートラルなんだと思いました。
そして、そんなふうに、ニュートラルな人間関係を構築したり、維持する為には、まずはニュートラルな自分、ニュートラルからブレない自分、もしもブレても戻せる自分、を育てていく事が大切かな...と思いました。





お読み頂き、ありがとうございました。





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