ちんちんがマリオの映画を見た。
スーパーマリオが題材になった映画を見た。
この世は地獄で、私もまた地獄の中におり、映画を見る金銭的、精神的余裕も全くなかったのだが、「今、評判のいい映画を見ないと社会的に殺す」という指示が仕事の上司からあり、マリオを見に行くことになった。領収書は取ったが多分自費だ。東宝シネマズ新宿、ふつう式でみた。アイマックスとかではないやつ。
一番大きなスクリーンで見たけど、あれだ、映画って、あんなに人が入るものなのか。あんなにポップコーンで列ができるものなのか。
埼玉の片田舎の、「地獄のぬめり文化劇場」みたいな、人形劇でもやるのかみたいな映画館で、4,5人しか人がいない中でドラえもん映画を見てきたような人生の私にとって、映画館が子供連れでいっぱいになっているって、怖かった。子供たちが全員行儀よくお座りしていたのも怖かった。隣のお父さんが上映中、ひたすら子供たちをスマホで写真撮っていたのも怖かった。マナー違反じゃないですか。
こんな時代なのに、映画を映画館で見たいと思う人がいるんだなあと驚いた。わし、どこか、映画愛がないからか、映画館でものを見るっていうのが、あんまり馴染みがない。正直見るまで、2時間くらいじっとするのキツいなあと思っていた。
でも、こう……始まる前の予告を見始めると、なんとなくワクワクする。これからこちらを、楽しませてくれると。私は何もしないでただ座っていればいい、という安心感。おまかせーって感じ。
これ、配信を見ている時には味わえなかった感じする。はーい、王です。楽しませたまえよーみたいな気持ちに、やっぱり映画館ってなるんだなあ。
で、今から見るのは、現在最もお客さんを楽しませているという、ザ・エンタメだ。
ああ、俺の、敵だ。
俺、楽しませようとしてくれるものに、すごい嫌悪感がある。嫌なのだ。楽しませられたくないのだ。楽しみたいのだ。だから、楽しませよう、いい思いをさせようとすり寄ってくる気配を感じると、もう、所かまわず奇声を発してしまう。
俺は、奇声を発せず、生きて帰れるのかなあ。
さてここから、映画の内容のネタバレを、これからします。
というか、嘘ネタバレの、嘘感想を言うつもりです。
それが一周回って、映画の感想になると思います。映画を見たことは確かです。では花の写真以降が感想です。
ブルックリンの片隅に住むイタリア移民系アメリカ人のお話だった。
とても驚いた。スーパーマリオこと、マリオ氏は、実在するアメリカ在住の配管工として描かれる。
イタリア系アメリカ人といえば『ゴッドファーザー』なのだけど、マリオの父母が出てきたのには驚いた。あのヒゲ面もあるから、父母が健在であるというイメージは全くなかった。で、親戚と一緒に暮らしている。その設定の妙なリアリティ。そしてその親や親戚の、微妙な距離感……嫌と言えば嫌だが、嫌悪するような関係性ではない、という感じが、とてもマリオ氏的にもつらいなあと思った。
こういう、世界的キャラクターの伝記で、オリキャラで父母が描かれるのは、すごい予想外だった。なんかアンタッチャブルな感じするじゃないですか。映画版になった時に、ゲーム未登場の父母出しちゃうのって。
マリオ氏は弟のルイージ氏と、独立配管工をやる折、貯金をはたいて自らが出演するCMを作ったところから物語が始まる。本人たちはCMに出演したときの衣装を着た状態で作業をしますーがウリってことで、あのコスプレ感のある衣装を着たまま生活してるんだろうなと思った。衣装に対するエクスキューズ付けをちゃんとしてたなあ。
元の雇い主からは睨まれ、CMを見たクライアントからの仕事は失敗。
帰宅後、意気消沈しているところに父からは、就職先から独立した事を「理解できない」「弟を巻き込むのは看過できない」と、その独立にやや否定的な言葉を掛ける。
その時に、マリオ氏に一言、揶揄っていうか、告げる言葉がある。
「お前は配管工くせに、なぜ白い手袋をしているんだ?」
(一回しか見ていないので正確な引用ではないです)
あーっと思った。
そして、本当、良くこの映画の脚本スタッフは気づいたなあと思った。
あいつは、マリオは、配管工なのに白い手袋をしているのである。
それも、作業用の皮手袋ではない。おそらく、礼装用の、ジェントルメンがつけるような、手袋なのである。
愕然とした。いままで何気なくマリオを見ていたけれど、奴は確かに白い手袋を付けているのだ。
そしてマリオは劇中、一切手袋を脱がない。配管工事をしている最中ですらそうだ。軍手ではない。とても作業しにくそうな手袋。
そこに、ブルックリン在住の低所得者の夢が垣間見えた。
ただの配管工ではない。ただの労働者ではない。いつか、白手袋であることにふさわしい人間であろうとしていたのだ。
人間だ。ここに人間かがいた。
ゲームパッケージにもずっと白手袋が描かれ続けていたけど、その屈折に俺は気付かなかった。
その気付きだけで、我、満足した。ブルックリンの低所得者の映画、ということで共感したなあ。俺も、心の白手袋、幼少期からつけているものな。そのせいで、労働時に面倒くさがられたり、からかわれたりするものな。死ね級の揶揄は日常的に言われるものな。そこに対して「へへっ、そっすよねー」みたいな笑いで、ごまかすもんなあ。
でもマリオ、白手袋をずーっとつけてる。スーパーマリオブラザーズのパッケージ以降ずっと。
その孤独に気付けなかったなあ。映画にならないと気付けなかったとはなあ。
現実のマリオ氏は、スラム街で日雇いの仕事をしながら、悪い仲間から手に入る一応合法な「赤キノコ」で妄想を誇大化させ、「お花」で体を熱くさせる。
トリップ中のマリオ氏は、クリを踏み、カメを踏み、桃尻を追いかける。「葉っぱ」を覚えると、「しっぽ」が生えて、「空を飛ぶ」。
重度のジャンキーだ。もう救いようがない。
そして劇中、ブルックリンの大規模工事災害に巻き込まれ、水道管破壊事故でできた水流に飛び込んでしまい、数日後、土管の中で冷たくなっているところを発見される――というストーリー。
死に際に見た幻想で、彼は最後、異世界のキノコランドに居を構える。
父母とは無縁の世界で、配管がワープゾーンとして使われている世界の管理人としてそれなりの立場を築き、「かわいい」が前提の、小さきキノコたちを相手に商売をしていくことが示唆される。
俺だなあ、と思った。俺の夢だ。
「かわいい」存在に囲まれ、同じく異世界から落ちてきた名前も知らない女性と責任を取らなくてもいいギリギリの友情以上関係を結びながら、事務関係を押し付けて重い工具箱を無自覚に持たせている、無条件に己を慕う年下親族と、現実ではないとこで生活したいってさあ。
そう思いながら、もう何十年前からプレイしている『パルテナの鏡』をやり続け、「ヤラレチャッタ」画面を見続けている人生のマリオ氏。
この世は地獄なんだなって思った。
なにひとつ楽しくないんだなあ、この世は。
ポジティブな事なんて何もない。
劇中の中盤、巨大猿にマリオ氏は一方的な暴行を受けるのだが、巨大猿に猫の格好をして逆転、というあまりにも無理のある展開(ゲームに出てくるアイテムではある)がある。
猫の格好をすることにあまりにも伏線が無さ過ぎて怖いと思った。変な服を着ると異様に強くなる設定って、映画中にはどこにもえがかれてなかったよなあ。このあたりが批評家のウケが悪いんじゃないかなあ。「マリオって猫の格好すると巨大猿より強いというのは常識」みたいなの、通じると思ってるのは天界の住人しか知らないんじゃないかなあ。
地獄の住人は映画を見る資格がなかったのかもなあ。
俺はもう限界なのかもしれないなあ。
レインボーロードの音楽が掛かった瞬間、泣きそうになったけど、たぶんそれ、死期が近いからじゃないかなあと思いました。
「知ってるもの」を「うまく」見せられると、強制的に楽しくなってしまうよなって。
だから俺、映画を見たくないんだよ。
誰も俺に感情移入させるな。誰も俺を、楽しくなんかさせるな。
せめて俺の精神くらい、自由に地獄にいさせてくれ。
たのむぜ、ちんちん。