【生きる】が仕事の動機で何が悪い
よく日本では【生きる】の意味を無駄に考えたり、論じたりする
だが、それは一体どういうことなのか?
このネパールという国を旅していると
【生きる】は【仕事をする】=【幸せを追求する】
のような意味のような気がする。
たとえタクシーの運転手でも
野菜の自転車の行商でも
米農家のおじさんでも
その日1日1日を精一杯仕事してる、その仕事の中に笑顔がある
そこに果たして動機はあるのだろうかと考えてた
日本だと就職するにあたって必ず【志望動機】をきかれる
この動機というものだが、トヨタ方式で自分の動機を
5回以上繰り返し繰り返し問いただしてみると【生きる】に
辿り着かないだろうか?
転職サイトDODAの希望同期の書き方のポイントが書いてあるので参照させていただいた
1 「転職理由」と「魅力点」を結びつける
2 あなたのオリジナルのポイントの強調
3 自分のスキル・実績
4 提出方法によって文章量を変える
どれも【WHY】を繰り返すとどうなるか
結局は
【生きる】は【仕事をする】=【幸せを追求する】=【自由である】
これに行き着く
アメリカの憲法の中に【幸せを追求する】という
ものすごく崇高な項目があるのはご存知だろうか?
おそらく、初期のアメリカ建国時の【自由の概念】が
明確になっていた時代なのかもしれない
私は【生きる】というこははそういうことだと思う。