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生きること生きてないこと、生と死、混沌と静寂の時 2020.5.22

去年、夫の母が亡くなり、今年は祖父が亡くなった。そのためか、死と言うものが、暮らしの中ですごく身近に感じられた。

夫婦でも、ふとした会話で生きること、死ぬことについて話したり、子どもたちも、「おじいちゃん死んじゃったね」とか「オバアに会いたいって泣いたね」とか「歳を取って死ぬのが怖い。棺桶にはいるのが怖い」とか、いろんな話をする。

5月20日、すごく親しく付き合っていたわけではないけど、自分の中では親しみを感じでいた人が立て続けに二人亡くなって、喪失感と、脱力感を感じている。宮古島は大雨が続き、余計に悲しみを感じる。

それぞれ、宮古島と石垣島で、社会の問題に向き合い、文化に貢献し、この社会を良くしたい、平和な島にしたいと尽力されていた方だった。その方達が志半ばで逝ってしまい、私がお二人の想いの分までしっかりやりますと言えるほど自分に強さもなく、私は私のやれることしかできないのだろうけど、それでもその方達が望んでいた社会に少しでも近付けたいとは思う。

よく「人は死んでも心の中に生き続ける」とか、「その人が残したものは消えない」とか言う。それはそうだと思う。

じゃあ、生きていることと生きていないことの違いはなんだろうと、この2日間ボーッと考えている。
亡くなった人にはいつでも会いにいける。水の中の宝物を潜って行って探すように、こちらが会いたい、触れたいと思えば、いつでも会いに行ける。その人がやり遂げた仕事や、作ったものや、書いたものにも触れられる。
でも、こちらの意志がなければ、その触れ合いは起こらない。

生きている時は、いい影響も、悪い影響も、人はバシバシ与え合いながら生きている。
とても楽しい時間、嬉しい時間がある反面、見たくないものも見なきゃいけないし、聞きたくないことも聞かなきゃいけない。

祖父との思い出は、子供の頃のとても大事にされた記憶もあるし、大人になってからの考えや価値観の違いからくるすれ違いの時期もあった。最後亡くなる前に、多くを語らなくても和解できたような時間があったけれど、もしたまたまタイミング悪く、そんな時間が持てなかったらどうだろう。今違う気持ちでいるかもしれない。

一昨日亡くなった方とも、平和への思いを共にし、私の活動を応援していただいたり、本当にお世話になった。応援するからこその批判などもあって、一時期関係が悪くなっていたりもしたけれど、その後また一緒にひと仕事できて、関係を修復できて良かったと心から思っている。
だけどそれもたまたまで、人生はいつ何があるか分からない。大ゲンカをしたすぐ後に、相手が死んでしまうかもしれないのだ。関係性は日々変化しながら、私たちは流れる時の中を生きている。
だからって人間いつでも誰とも仲良くなんて、やっぱりできないのだけれど、でも、この今という一瞬が、どんなに大切で、その人が存在しているというのが奇跡で、後悔ないように想いを伝えるということが、どんなに大事かといことを、思わずにはいられない。

人が亡くなってしまった後は、誰かの心に、その人は生きる。
それはとても静かな気がする。

その人の残した、良き部分、素晴らしいものにだけ、会いに行けばいい。
うまくいかないことも、わかり合えないことも、全て終わり、楽になる。
静かな供養の時が始まる。

それだけ、生きてるって、なんて愛おしい。
苦しくて、辛くて、憎らしくて、わがままで、傷付けあって、そのぶん、嬉しくて、幸せで、愛してて、大好きで、美味しくて、気持ちよくて、楽しくて。

生きるって、それを感じきること。

逝ってしまった人達、その時間を一緒に過ごしてくれて、ありがとう。
私はもうしばらく、この混沌な世界を味わって、生きるね。
そして、一緒に生きてくれる人、ありがとう。

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