はないちもんめの残酷さ
昨日、小5長男が音読していた国語の物語文に登場した「はないちもんめ」。
おそらく経験した人はいないんじゃないかと思うほど、メジャーな遊びの1つですよね。
「どの子がほしい?」「どの子じゃわからん」…と続いて、名前を指定して、人を取り合うという。今思えば、けっこうハードな遊びだったなぁと思います。子供の頃は、特に深く考えずにやっていた気がするけど。
長男が音読していた国語の問題では、「はないちもんめ」をしていて自分のチームが2人になり、最後の1人になったらどうしようと不安になる主人公の気持ちと、結局、最後の1人にはならなかったものの、「残りたくない」と思ってしまった負い目や最後の1人になった友達への葛藤する気持ちなどが書かれていました。
こうやって改めて考えると、たしかに「はないちもんめ」をする時に、「最後の1人になったらどうしよう」っていう気持ちは、自分も少なからず持っていたかもなと思います。いやー、なんかね、けっこう残酷な遊びですね‥。
ちなみに、今どきの子は「はないちもんめ」せーへんのちゃうかな?と思って、長男に聞いた所、「はないちもんめ、やだよねぇ」という返事が返ってきたので、経験はあるそう。
なんでもいじめにつなげるのは良くないとは思いますが、状況をうまくみて、時には先生が入ったりしないと、けっこう危うい遊びなんじゃないかと思います。(ちなみに、問題文の中では自習の時間にはないちもんめで遊ぶという設定でした。つらいね!)
まぁ、でもこの国語のテーマは、はないちもんめをやったことがない子供では分からないかもしれない心情ですね。そういう意味では、いろんな感情が生まれる遊びというのは意味があるのか?
「子どもには、できるだけプラスの感情に囲まれて楽しく過ごしてほしい」と思う一方で、国語の長文読解の勉強の時には、「もっといろんな感情を体験せんとあかんなぁ!特にマイナスの感情。」と思います。勝手ですよね、矛盾してます。
国語の長文読解の中で、いろんな問題文を読むと、人間っていろんな感情に挟まれて常に葛藤している面倒な存在だなと思います。自分も含め。
たった今も、私はこんな夜にチョコレートを食べたい気持ちと、太るからやめなきゃいけない気持ちが葛藤しています。そこにさらに、昨日は我慢したから今日はいいんじゃないかと悪魔のささやきと、昨日我慢できたから今日もできるやろという天使のささやきが入ってきて、もうわけわからん感じです。この私の今の気持ち、30字で書けるかな?