オーストリアの優雅な田舎町
オーストリア・ザルヅブルクのユースホステルで目が覚めると、朝から雨が降っていた。
ザルヅブルクに来る前、僕はブタペストの温泉に入って体力が回復するどころか、むしろすっかり体調を崩してしまった。たまたまルタージュ温泉浴場で一緒になった地元のおじさんのお陰で、予定よりずいぶん長湯をしてしまったからだろう。
旅先とはいえ、こんな日は何もせずにゆっくりと過ごしたくもなる。しばらくベッドの上でぼんやりしていたが、ふとザルヅブルクから少し離れた町へ行ってみたいと思った。
行き先は決まった。
ザルヅブルクから東へ。バードイシュルという町だ。
*
中央駅から乗った列車の中で、ボックスシートに座っていた3人組の若い青年たちに声を掛けた。念のため、バードイシュルに行くか確かめたかったからだ。
すると思いがけない幸運が起きた。そのうちの一人の青年がバードイシュルの駅で降りるという。
「途中で乗り換えが必要だから、一度降りるときに声を掛けてあげる」
聞いてみるものだ。やがて、ある駅でその青年は一緒にいた友人たちと別れて列車を降りた。もちろん、僕も一緒に。
それから列車を乗り換え、僕たちは再びボックスシートに座った。
クリストフという名前の青年だった。いかにも西洋的な響きを感じる名前だ。
名前だけならまだしも、ルックスもまたいい。赤いカーディガンが似合い過ぎている。紺色のニット帽をかぶり、耳の横から金色の髪が首元までさらっと流れでていて、簡単にいえば僕のような”濃い系で険しい顔”とは正反対の顔をしている。
日本人女性の多くが虜になってしまいそうな”男の色気と優しさ”が漂っていた。
そんなクリストフ青年が僕に言った。
「町を少し案内してあげるよ」
*
じつは、僕もクリストフ君も英語が流暢には話せない者同士だった。
列車で移動している間、ちょうど彼の母親から携帯に電話がかかってきて少し話しているのを聞いていたが、彼の母国語はドイツ語だ。
旅先で言葉があまり通じ合わないなら、後はお互いの表情やジェスチャーで伝えることができるものだ。
例えば、クリストフ君が目の前でいきなりパンを食べ始めた。この時、僕はちょうど腹が減っていたのだ。僕は手でお腹をさすりながら羨ましそうな表情をして彼をじっと見つめる。すると、
「お腹減ってるの?あげるよ」
と、笑いながらパンを半分ちぎって分けてくれた。
車窓からは大自然が広がっている。バードイシュル周辺は大小多数の湖が散在し、アルプスの山々に囲まれた丘陵地帯の中にある。雨の中、列車は湖畔を沿うようにして走っている。
クリストフ君は、列車の中でこのバードイシュルの冬の情景について教えてくれた。真冬になると、周辺にある湖は凍結するらしい。そして、凄い量の雪が降るという。
彼は組んでいた足を崩し、席から勢いよく立ち上がって言った。
「これくらい積もるんだ!」
それは自分の身長に匹敵するくらい積もるのだと、身体を使って教えてくれたのだ。
冬になれば、近くの山でいくらでもスキーができるらしい。だが、決して楽しいことばかりではないようだ。
今度は、手でスコップを動かす身振りをしながらクリストフ青年は嘆いた。
「俺は誕生日が真冬なんだ。毎年、誕生日はほとんど雪かきで終わるよ」
*
バードイシュル駅に着いた。小雨だが、雨はやんでいない。お互い傘は持っていなかった。
どうやらこの後、母親が車で迎えに来てくれるらしい。さっき列車のなかで電話をしていたのはきっとその件だったのだろう。短い時間だったが、彼は一緒に町中を歩いてくれた。
ザルツブルクに比べれば人口も少なく、町は雨のせいで静けさが増していた。ただ、建物は黄色などの明るい色が多い。町にはトラウン川という川が流れている。これまでに見たモルダウ川やドナウ川と比べればとても小さな川だが、ヨーロッパの田舎の雰囲気があって気持ちが良かった。
ツァアナーという皇帝御用達のカフェもある。店内は、いかにも気品ある貴婦人たちが微笑みながら大きなガラスショーケースを取り囲んでいる。彩り溢れるケーキやチョコレートにみんな釘付けだ。
「ここは値段が高いし、俺はここでコーヒーはほとんど飲まないよ」
オフシーズンの雨の日で人通りはかなり少なかったが、特に春から夏の行楽シーズンは観光客で賑わうという。クリストフ君のような地元に住んでいる人、特に若者はあまり来ないのかもしれない。
小さな町とはいえ、中世の頃は皇帝の別荘があって温泉保養地としても栄えていたらしい。そうした影響もあって、小さな町だがどこか優雅な雰囲気が漂っている。
「ほら、この建物も温泉施設だよ」
指をさしながらクリストフ君が教えてくれる。こんなところにも温泉があるのかと思った。
僕はまたしても”温泉マジック”にかかりそうになったが、さすがに病み上がりだ。しばらく温泉は我慢しようと思った。
雨が強く降り始めてきた時、クリストフ青年を迎えに車が到着した。
別れる間際、クリストフ君は「ちょっと待って!」と言ってバックから紙を取り出した。そこにクリストフ君は自分のアドレスを書き始めた。その横に僕は自分のアドレスを書いた。お互いにその部分をちぎって交換したのだが、その間ずっと雨粒が紙に滴り落ちていた。
嫌な予感はしながらも僕はポーチの中に入れ、帰りの列車の中で確認した。
文字がにじんで判別が不能になっていた。クリストフ君はどうだったのだろう。結局あれから連絡が来ることはなかった。
旅先で心に残った親切な青年だった。
***
(2006年11月初旬 撮影)