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なにごともないまま

2025/01/27

表題のとおりの日々が過ぎている。予定がないわけではなく、毎日通所やボランティアや当事者会の開催などイベントごとをこなしているし、この時期は大学の単位認定試験もあり、あわせて4科目やっつけたのでそれなりに多忙ではあった。

猫をかいはじめてから2週間以上たち、猫のいる生活にもすこしずつ慣れてきていた。朝方ごはんがないと要求なきが激しいので、夜寝るまえに多めにあげるようにした。そうすると排泄のタイミングも遅くなってトイレを綺麗にしろという要求なきで起こされることも減った。しつけもしなければならない。難しいがおだやかに日常は過ぎている。

仕事は決まったが2月中旬の就労開始まですることがない。特段準備できることがあるわけでもないので、時間をもてあまし気味でいる。仕事がはじまったらそりゃ大変なのだろうが、いまは片鱗すらない。でも名刺用の似顔絵を描かなきゃ。

なにごともないのはメンタル面もだ。わたしの躁鬱の波はラピッドサイクラーで、2ヶ月に1度は大きな鬱がくる。最後にしにたくなったのは10月初旬だ。いちばん派手なODをして、生き延びてしまった。はじめてODの副作用も痛感した。それ以来、死ぬ気も起きず、ゆらりゆらりと過ごしている。

起きたら、猫のトイレを掃除して、着替えて、用事をこなして、夕方ごろ帰ってきてごはんを食べる、猫のごはんは取り下げてしばらくのあいだ、じぶんの作業をする。といってもやるべきことにはあまり手をつけられず、なんでもいいことばなかりしている。Youtubeを垂れ流したり、SNSを眺めたりしながら、時折猫をかまう。夜には親友ノートをかいて、気力があれば風呂にはいって、猫のごはんをあげて、友人との交換日記を書いて寝る。

そんな生活が続いている。なにごともなく平和だ。「いいことだと思えばいい」と相談員にいわれた。そうだろうか。「平気なことが増えたのはレジリエンスが強化された証なのだ、だから大丈夫なのだ」と平穏な認知を抱えるわたしと「嵐のまえの静けさだ。いまにおおきな災難がふりかかるに違いない」と悲観的な認知を抱えるわたしが共存している。

なにもおこらなかったことなんてなかった。去年だって一昨年だって、スタートダッシュは良好だった。けれども、気づいたらじぶんではどうしようもできない不幸な出来事がおきて、立っていられなくなった。今年もそうなるかもしれない、そうなるに違いない。自衛のためにも考えなくてはいけない。

「前例があると不安になりますよね。いっぽうで言霊というのがあるとおもうんです。じぶんの人生のことを誰よりも考えているのはじぶんのはず。そのじぶんが不幸になると強く思い込んだらほんとはスルーできたはずの小さな不幸がたくさんみえてきちゃって苦しくなりやすいから、なにかあるかもしれないけど、レジリエンスが強化したんだという事実も信じて、両方の認知をバランスよく抱えていられたらいいんじゃないかなとおもうんです」

支援者のわたしはこういうだろうな。受け止めて、考えを述べて、両方の認知をみとめてもらうようにして。そうして本人のなかでちょうどいいバランスを見つけてもらうのが仕事だから。支援者にわざわざ相談しなくても、わたしのなかにある支援員像が応えてくれる。職業病だ、こんなもの。

なにごともないから、カウンセリングでも、特段なにも大きな相談事はなく過ごしている。でもそれは、これから友人関係になっていくにあたってちょうどいいかもしれない。しんどいことを相談するのは別の相手に託して、彼女とはいたってふつうの人間関係を築いていくのだから、これでいい。

そういえば、一昨年も去年も「なんともないことが増えた。これはレジリエンスの強化だろうか、それとも躁だろうか」と悩んだ時期があったっけ。そのときはどちらもレジリエンスに違いないと結論をだした。今回もそれでいいのかもしれない。どうせ仕事がはじまったら、大変な想いをすることは目に見えているんだ。朝おきるのがしんどいとか、通勤がしんどいとか、支援者の顔を完全にかぶることが苦しいとか、単純に業務が難しいかもしれない。

きっと大変になる。だから大丈夫だ。
おかしくていい、そう励ましている。

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