高校最後の夏、バドミントンを失った。
電車の中でヨネックスの文字の入った物を持った学生を見る時ほど、自分の過去を思い出すことなんてない。
僕も彼らと同じように、全力でシャトルを追いかけていた。
バドミントンを失ったけど、今も心のどこかには選手になりたかったなという思いはあるはず。
改めて自分自身を振り返りながら初めてnoteに記事を書いてみたいと思う。
バドミントンとの出会い
僕は中学1年生でバドミントンというスポーツに出会えた。というのも何かの部活に入らなくてはいけず、理由は単に「楽そうだったから」と「先輩が優しそうだったから笑」でもその選択はその後の人生すべてを大きく変える選択となった。
みるみるうちにのめり込んだ僕は、次第に部活動の時間だけでは足りないと思うようになり、親に頭を下げてクラブチームに入会し、暇さえあればバドミントンのことを考えているという状態になっていた。
練習は本当にきつかった。でもそれまで運動なんてめっぽうごめんだった自分がコツコツ積み重ねていって目標を達成しようとしていることに少しばかり嬉しさがあったかと思う。
成績はまあそこそこ。宮城県内の強化練習会に呼ばれたことがめちゃくちゃ自信になった記憶があり、もちろんそこで満足はせずに高校でもバドミントンを続けようと強く思っていた。
高校入学と顧問の先生
沢山の選択肢の中で迷った結果、地元の工業高校を選んだ。
決め手は当時顧問だった歴先生、今も20代でとても若い先生で部活に対して熱くこの先生のもとなら本気で取り組めるなと思い入学することに決めた。
部活には様々なルールがあったのだが中でも面白いのは「赤点1つ取るごとに校舎の周り100周」というルール笑
学生の本業は勉強ということは忘れずに文武両道を心がけてきた。
そのバックもあってか僕は常に校内トップクラスの成績を出し、高校3年生では首席にもなれた。
今思うと何事にも負けず嫌いの性格なんだなと思う。
当初、11人の新入部員が集まった。
練習強度は中学時代よりももっとハードになったが良い先輩方に恵まれ、毎日笑いの絶える日々だった。気合を入れるために皆で坊主にしたこともある。野球部は坊主じゃないのに笑
県大会や遠征ではホテルに宿泊することが何度もあり、旅行なんてほとんどしたことのない自分にとってワクワクした気持ちが止まらなかったのを覚えている。
伝説の散髪会。
だが公立高校なので部活に対するやる気はひとりひとり違っていた。ある日一人が部活を辞めると、流れるようにまた一人と去って行った。
2年生に進級した頃には半分以上が辞め、僕を含めて5人となっていた。
これには歴先生も悩んでいる様子だった、救急車で運ばれる人も出るようになると校内では「バドミントン部の練習がキツイ」という話まで広がったようで僕も地域の人に言われることが何度もあった。
だが先生は練習量を落とすようなことはしなかった。これは僕自信も本当に感謝していることだ。普通なら風評のようなものを気にして立ち止まってしまってもおかしくないのだと思う。
努力は報われるという実感
先輩と練習できる期間も長くはなく、あっという間に自分の世代となった。
僕が部長になるのも時間の問題で、新しい後輩も入部した。
勝ちたいというより、勝たなくてはいけないという心情だったと振り返ってみて思う。
練習量はより一層増え、18:30までの部活後、20時前まで学校に残り自主練をし、帰宅して食事や次の日の用意を済ませ、自宅でのトレーニングが始まる。日付が変わるまでトレーニングをしていたこともよくあった。
練習が実ったと感じたのは夏の県北支部の大会だった。
中学の頃から、あいつには勝てないと思っていた友人とシングルス3回戦で早くもぶつかった。
試合が始まってすぐに気づいた。「自分もこのレベルまで来てる。」と、
相手は自分が1回戦負けをしている大会で勝ち進んでいるような実力者だった。
試合はお互い1ゲームずつを取り合いファイナルゲームへ、シーソー状態が続き、14-14のデュースに入った。21点打ち切りの試合だったがなかなか決着がつかず、さらに20-20までもつれ込んだ。心臓は張り裂けそうだった。
まだ3回戦だったので他の試合も残っていたが、流石に体育館全体の目線を集めているような状態でさらに他コートが空いていたにも関わらず本部が試合を入れなかった。
緊張した笑
でも不思議と楽しめたのは僕の方だったんだろう。
その1点は僕が取った。
決めた瞬間に足が勝手に動き、隣の、更に隣のコートまで走っていった。
そして涙が止まらなっかったのを今でも鮮明に覚えている。
努力は報われるんじゃないか、いや、少なくともこの瞬間は確実に努力が実ったのだと思えた。
結果はダブルスが準優勝、シングルスは3位だった。
人生を変える言葉
この試合から間もなく山形県のとある高校へ遠征があった。
相手校の練習に参加したのだがその高校は山形県上位ということもあり、想像以上にハードかつ、真夏ということもあり意識が飛びそうだった。
練習中はマイナス発言禁止というルールがあり、終わった直後にぼくは、
「どこでもドアがあったら今すぐにでも帰りたかった。」と言って歴先生も笑っていた。
そんな一日の中で僕は忘れられない言葉に出会った。
相手側の顧問の先生の一言。
「今こうして練習している間に、エアコンの効いた部屋でゲームしたり、寝ているやつもいる。そんな人と同じ人間にはなるな。」
僕が練習している間に誰かも練習している。
僕が遊んでいる間に誰かは練習している。
社会人となった今でもこの言葉を大切にしている。
ここからぶつかる壁に当たる度に強く。
バドミントンを失っても。
一匹狼の部長
秋、同級生の部員は僕を含め二人になった。
一人が大怪我、二人が長く休みたいという理由だった。
そのうち、後輩にも辞める人が現れた。
女子は後輩しかいないため、僕は男女両方の部長のようなもので、叱ることが僕自身の役目のようにも思えた。
僕は完全に一匹狼だった。
起床してから体育館に向えず、遅れて到着後も外でうずくまっていた事もあった。
僕はそこで担任の先生に一年後に試験を控えた希望の就職先を伝えた。
愛知県の大企業だ。
そこを希望した理由はたくさんあるがバドミントンに関係したことを書きたいと思う。
1つ目に生活が安定しなければバドミントンができないということ。
2つ目に実業団選手になって、自分よりも遥かに実力も気合もある人に囲まれて練習しようと思ったこと。
ここまで自分を成長させてくれたバドミントンを続けようという意思がしっかりとあった。
もっと部員に練習を楽しんでもらおうと悩み、試行錯誤しながらあっという間に翌年の2020年2月になった。
バドミントンを失った
練習はそこで予告もなく途絶えた。
新型コロナウイルスで突然の休校。
もちろん部活があるわけもなく、地域の体育館はすべて閉鎖された。
歴先生は毎日の自主練ノルマを作り、僕はそれを毎日欠かさずにプラスαも加えて練習再開を待っていた。
その時は1ヶ月くらいだろうと思っていたが当たり前のように時は過ぎ、気づけば6月になっていった。
本来ならすでに引退となるはずの時期に練習は再開した。
待ち望んでいた。確かに。
そこにはなんの恐怖心もなかったはずだった。
3ヶ月ぶりのバドミントン、最初のトレーニングは多分シャトル置きだったと思う。
さぁーやるぞと、1セット目を始めようとしたそのとき、急な吐き気に襲われた。
嗚咽が止まらなかった。
昼ごはん食べすぎたと思っていた。
次の日になると声出しができない。
トレーニングをしている人を見ると吐き気がこみ上げてきた。
何かがおかしいでも全くわからない。
症状は次第に酷くなり、バドミントンに関する会話ができない、体育館に入ると気持ちが悪くなる。などといった事が起こった。
後日、精神疾患だと判明した。
薬にはなんの効果もなかった。
明日はできるかもしれない。
明後日は、一ヶ月後は、
何度も挑戦をしてみた。
↑精神疾患だとわからない時に載せたストーリー。
治療法はないかと、
沢山調べて実践したが改善はしなかった。
僕はそこでバドミントンを失った。
最初は受け入れることができなかった。
もしここで練習が中断していなかったら、バドミントンをできていたのかな?と今にも思う。
でも先生と部員に説明をして残り1ヶ月の部活を最後まで楽しむことに決めた。
高校総体は無くなり、代替試合が開かれる予定となったが参加はしなかった。
他校の先生やコーチに「参加しなかったのもったいなかったんじゃないか?」と聞かれるが僕は「やりきりました」と詳しいことは伝えなかった。
(なのでこれを見ている人はラッキーです笑)
引退後の歴先生からのメッセージ。
精神疾患との戦い
その後、精神疾患はバドミントン意外の面でも僕を苦しめた。
声が出せない。緊張が怖い。
就職試験では面接で嗚咽が止まらなくて、一生懸命練習して頑張った。元々実業団選手になろうと就職希望していた会社なのだが会社の規模の大きさに惹かれ、志望し無事に合格できた。
入社後、規律訓練という研修があり、喉が潰れるんじゃないかというほどの声を出さなければいけないのだが声の前に昼食が出そうになり他の同期とは違うキツさの日々を過ごした。
相手の目線になってみる
精神疾患になって学んだこともある。
サボりながら皆と部活をする必要があった。
復帰した同級生3人は神がかっていたサボり人間でそれまでの僕は苛立ちながら練習をしていたのだが、初めてその3人と同じ心境に立てた。
意外にも毎日面白かった。
たぶんその時が僕が一番部活を楽しんでいた気がする。
言葉では説明しにくいこれからの生き方で大切なことを学んだ気がした。
サボるというか体力温存というか、相手の目線になってみて初めて気づくことがあると知った。
バドミントンをするすべての人へ〜最後に〜
僕は誰も恨んでいません。
なぜなら僕はすべての選択を自分で決めてきたからです。
親にも、先輩にも、先生にも左右されずに。
精神疾患は今もこれからもまとわりつきます。
ですがそれにより選択肢を減らそう、逃げようとは思いません。
皆さんはバドミントンを純粋に楽しめていますか?
自分自身、あるいは自分の子供、教え子の成長を周りの環境のせいにしてはいないでしょうか?
他の子の親が気に入らない。コーチの練習メニューが。顧問のやる気が。先生の宿題が。ダブルスのペアが。そんなことをたくさん聞きます。
ラケットを握れば皆一人の選手のはずです。
僕のように病気に邪魔されないはずです。
英語は複数形になると語尾にsが付くんですよね。
books とか、
ダブルスはペアがいるからダブルじゃなくてダブルスなのはわかるけど。
じゃあなんでシングルスなの?って、
バドミントンは相手がいないとできないからシングルじゃなくてシングルスなんですよね。
感謝の気持ち。もう一回見直してみませんか。
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