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ビートルズ「Blackbird」と、二度と会えない人たち
ビートルズ「blackbird」
日曜日の午後、夫のワイシャツにアイロンをかけながら、AirPodsでYouTubeの音楽を聴いていた。
すると、不意にポール・マッカートニーの弾き語り「Blackbird」が流れ、私はその美しさに心を奪われた。
この曲を聴くと、ある記憶がよみがえる。
昔、付き合っていた彼が「Blackbird」をギターで弾き、それをテープに録音して私に贈ってくれたこと。
今のようにスマホで簡単に録音できる時代ではなかったから、テープに録音して贈るというのは、特別なことだったのだと、今になって思う。
彼のギターの腕前は素晴らしかったが、それ以上に「Blackbird」自体の静かで深い美しさに感動した。
彼は音楽が好きで、歌手になる夢を叶えるためにデモテープを作り、音楽会社に送っていた。話すことはいつも音楽のことばかりだった。
私は彼の夢を応援していたけれど、時間が経つにつれて情熱は少しずつ薄れていき、就職を機に離れ離れになった。気がつけば、いつしか連絡を取ることもなくなっていた。
それと同じように、彼がくれたカセットテープも、いつの間にか手元から消えてしまった。
かつては大切だったものも、時代の変化とともに移り変わっていく。テープはCDになり、CDはストリーミングに変わり、今はYouTubeやサブスクでいつでも聴ける時代になった。
けれど、「Blackbird」を聴くと、もう一人思い出す人がいる。
ちょうど同じ時期、私の大切な友人が村上春樹の『ノルウェイの森』を贈ってくれた。
彼女は私の一つ上の先輩で、本が大好きな人だった。
私たちはよく本の話をした。彼女のお気に入りは森茉莉で、いつも手元に置いて読んでいた。
二十歳の誕生日の日、私たちは本屋で待ち合わせた。
私はちょうど発売されたばかりの『ノルウェイの森』を熱心に立ち読みしていた。すると彼女が言った。
「誕生日だから、買ってあげる」
上下二冊の本を手に取り、迷うことなくレジへ向かう。
「えっ」と驚く私に、彼女はいたずらっぽく微笑みながら「お誕生日おめでとう」と言った。
それが、彼女との最後の記憶になった。
卒業後、彼女は遠くの街へ就職し、気づけば連絡は途絶えていた。
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叶わないからこそ
「ノルウェイの森」らの冒頭のシーンは、まるで夢の中に迷い込んだような静けさがある。
「僕」はハンブルクの空港に降り立ち、「ノルウェイの森」のメロディを聴いた途端に、18歳の頃の記憶がフラッシュバックする——。
音楽が引き金になり、過去の情景がよみがえる。
その感覚が、私にとっての「Blackbird」と同じだった。
音楽が鳴るたびに、時間を超えて昔の記憶が浮かんでくる。
懐かしさ、ほんの少しの切なさ、今でも残る喪失感。
それはまるで、「ノルウェイの森」の主人公が過去を追体験するように、私自身も記憶の旅をしているようだった。
「ノルウェイの森」をプレゼントしてくれた友人も、デモテープを贈ってくれた彼も、もう二度と会うことは叶わない。
世の中には、求めてもどうしようもないものがある。
どれだけ手を伸ばしても、もう届かないもの。
時間が経っても戻らないもの、人との関係、過ぎ去ってしまった瞬間——。
「ノルウェイの森」の主人公もまた、何かを取り戻したくても、それが叶わないことを受け入れざるを得なかった。
ナオコも、キズキも、そして過ぎ去った青春も、もう二度と戻らない。
でも、だからこそ美しいのかもしれない。
もし何でも簡単に手に入るなら、こんなにも深く心に刻まれることはなかっただろう。
手の届かないものだからこそ、いつまでも色褪せず、時間が経つほどに輝きを増していく。
若い頃には気づかなかったもの。
当たり前のように受け取っていた優しさや思いやりが、時間を経て、自分が変わったことで、ようやくその価値に気づくことがある。
その気づきこそが、「Blackbird」の静かで深い美しさと響き合うのかもしれない。
手元にはもう何も残っていない。
それでも、「Blackbird」を聴くたびに、彼らの優しさや思い出はそっとよみがえる。
それがまた、この曲の美しさを際立たせているのかもしれない。
(おしまい)
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