『十二国記 魔性の子』感想 泰麒にも陽子にも置いて行かれたとしても広瀬がいるから俺は山に行かなくていい
こんにちは!!!!
学生時代、小説にのめり込むのに比例するように成績が急降下していった落ちこぼれことどうも俺です!!!
「え、遅筆マン、おめぇ本ばっか読んでんのにバカなんかよキモ……」ってドン引きしてきたギャルの顔が忘れられねぇよ
それでどうですか、皆さんは送っていましたか??
鬱屈とした学生時代
俺は送っていました!!!!!(朗々とした声で)
嫌っすよね〜学校!!!!俺がゴジラなら全国の学校建ってるとこだけチョークで丸く囲ってケンケンパしてやんのによ〜!!!
発言の内容が偏差値低そうすぎる……
それはさておき学生時代に鬱屈とした青春を過ごし、本や空想の世界にどっぷり浸かった経験のある方にこそ、どちゃくそ刺さる本というものがあります
正しく本書がそうです!!!
というわけで、本日はあの頃に出会っていたら俺の聖書(バイブル)になっていたであろう名作・魔性の子について語り散らかしたいと思います!!!!
ちなみに今回はまぁまぁ真面目に語ります(万里ぶり2回目)
魔性の子
実際の刊行順からいっても、新潮社からの新装版のエピソード順で言っても一番頭に来るエピソード0に位置付けられる本書
ネットでは今なお「魔性の子ってどのタイミングで読めばいいんだよ?」議論が巻き起こっており、一方は「最初に読んでみてほしい!」もう一方は「後回しでもOK!(黄昏より前くらい?)」と意見は真っ二つ
事態はすでに「きのこvsたけのこ戦争」の様相を呈しています
じゃあ仲良しじゃん。みんな十二国記大好きじゃん。Love & Peace…..
魔性の子を後回しにした僕自身の意見としては、良い意味で「これはどっちでもいいなぁ〜」という結論に至りました
というか、どっちにも一長一短ある
現代の若者のようにスピード感のあるコンテンツに慣れ切っていて、小説にも広くインスタントさが求められるようになった現代において、前日譚に400Pの単行本はあまりにも重たい……
その上、魔性の子を読んだ後にさらに月影で「ネズミが出てくるまで我慢して!」というのは途中離脱がぶっちゃけ怖い……
と思うので、そこらへんを短縮するために魔性の子は一旦読み飛ばすルートのメリットは計り知れないし、一方で魔性の子から読んで十二国記の世界にいきなり飛び込むのも楽しい読書体験でしょう
僕に限って言えば、今回この「魔性の子」が刺さりまくる内容だったのもあって「後回しにして読んでよかったな〜」と思っています
本書を最初に読んでいたら、本編を読んでも「面白いけど、なんか期待してたのとは違うな……」となっていた気がするので
それほど、魔性の子は刺さりました
話したいことは多々あります
なんか知らんうちに高校生になっていた泰麒こと高里のこと、悲しい人生を送り笑わなくなってしまった高里のこと、徐々に俺(広瀬)にだけ笑顔を見せてくれるようになる高里のこと、俺(広瀬)と束の間の二人暮らしを過ごした高里のことなどなど
しかし、それをグッとこらえてこの物語の主人公・広瀬について今回は語り散らかしたいと思います
陽子にも泰麒にもなれない、俺たちの代表者・広瀬
ホラーと呼ぶのか、ファンタジーと呼ぶのかは大変に難しい本書『魔性の子』が描いたテーマは多面的ですが、俺にもっとも響いたものを言語化するなら、それは広瀬と高里に通底する「孤独な魂」ということになる気がします
すでに風の海を読んでおられる読者諸兄は、社会からも家族からも迫害され続ける高里の正体がわかりきっています
天の意思、民の意思の具現である麒麟がその正体であり、その本来の居場所は蓬莱ではなく「あちらの世界」です
そして、そんな人間とは異質な生物である麒麟であるからこそ、高里は迫害されるし、自分の居場所はないと思う
実際、この世界に高里の居場所がないことは本書が散々に描き切りました
そんな高里に共感してしまうのが、本書の主人公・広瀬になります
かつて臨死体験で夢見た幻想に心奪われ、そこに自分の本当の居場所を見出す広瀬は手厳しく言えば幼稚であり、優しい言葉で言えば純粋な青年ということになります
人間よりも麒麟に共感してしまう人間は、そりゃあこの俗世が生きづらいことでしょう
そして、この広瀬という登場人物は、生きづらい現実から逃げ出すために本の世界に逃げ込む少年少女が、そのまま青年になってしまった悲しい姿でもあるように俺には思えます
ハリー・ポッター、パーシー・ジャクソンなど、平凡で鬱屈とした子供が本来は別の世界の住人であり、そこでは選ばれた人間である……という物語は多くあり、翻ってそれが現実に生きづらを感じてしまう子供に通底する悲しい願望なのでしょう
この十二国記もまたそういう物語の一つであると解釈することもできます
(実際にそういう消費のされ方をしていたかはさておき)
本編一巻の主人公・陽子は深い友達付き合いもせず、親や教師に表面上はいい顔をして、誰かに合わせてばかりの女子高生のはずが、本当は慶国の王であり麒麟たる景麒が迎えにきてくれる……旅路がつらいものだったとは言え、その物語は空想に耽る少年少女には魅力的でしょう
というかそもそも、「胎果」という物語設定が生きづらさを感じる子供にとって魅力すぎるんですよね
どんな境遇の人間にも平等に「本当の故郷」の可能性を提示してしまう
その構造を批判しているように感じられる向きもおられるかもしれませんが、僕はこの手の物語が好きです
なぜなら、物語という「逃げ場」こそが現実を戦うために必要なものだったりするからです
十二国記という物語を読み耽り、陽子とともに旅をして味わった辛さや経験は生きる力や教訓になりえるはずです
たとえ心地のいい空想の世界でしかなかったとしても、そこからなにかを持ち帰ってこれるなら、それは逃避ではなく探索の旅に他なりません
そして、小野不由美先生は本の世界に逃げ込んでしまう少年少女にその「なにか」を与えて現実へと送り出してくれる優しい先達である……と、十二国記を読むといつもそんなことを思います
きっと十二国記を愛してやまない皆さんも、そんな大切ななにかをこの物語から持ち帰っているんじゃないでしょうか?
だから俺は十二国記が好きだし、小野先生は立派な作家だと尊敬しています
しかし広瀬の悲しいところは、本の世界ではなく、自身が夢見た幻想に逃げ場所を見出してしまったことです
空想よりもよほど現実感があったその夢は、紛い物の物語よりもずいぶん魅力的だったことでしょう
「本を読むのは好きだが、読み終えてしまった本はすぐ売ってしまう」という描写が広瀬にはありましたが、そのことからも広瀬は物語にそこまでハマり切れなかったんじゃないでしょうか?
少年少女に向けられた物語は、いつか現実と戦うために用意された仮の止まり木のはずですが、広瀬の欲する幻想は死へと直行しています
その誰にも理解されない幻想が、ピタリと高里の神隠しと重なってしまう
高里を理解できた初めての他人が広瀬なら、広瀬を初めて理解できた他人も高里です
孤独だった二人が初めて孤独じゃないと錯覚できたことは、お互いにとってささやかな救いだったはず
しかし、二人を繋ぐ幻想は、本物と偽物という差異によって悲しくすれ違い、最後は広瀬を置いて高里は元の世界へと帰ってしまう
高里に置いて行かれた広瀬の姿は、同じく月影の主人公・陽子に置いて行かれた我々読者の姿でもあります
胎果でもなく、麒麟に選ばれてあるわけでもない読者は、結局は陽子と違って「あちら側」には行けず、どれほど生きづらくとも現実を生きなければならないという宿命を背負っているからです
広瀬が山に行ったとて俺は山には行かなくていい
この魔性の子で最も好きなシーンはといえば、広瀬と高里がギアナ高地の写真を見ながら、遠く異郷に想いを馳せる場面です
現実に居場所を見出せない二人の空想が悲しく交わる、あまりにも切ないシーン
最後、別れの際に放った「山に行ってください」というセリフは、俺たちを置いていく物語の住人・高里から広瀬や読者へと向けられた、せめてもの心添えであったように感じます
広瀬は山へ行ったのでしょうか?
山に広瀬の居場所はあったでしょうか?
幸いなことに、読者である僕たちは広瀬のように山へ行く必要はありません
誰もが自分を理解してくれる理想郷はないけれど、自分のことを理解してくれる人を、俺たちは数多ある本の中から見出すことができるはずだからです
小説を読んでいて「この物語は俺のためには書かれたものだ!!」と錯覚した経験を、読書好きの方なら誰しも味わったことがあると思います
俺で言うなら太宰治であり、中島らもがそれにあたります
広瀬は自分を理解してくれる人間はいないと言いますが、実はそんなことはありません
誰にも理解されれない苦悩を描き、その苦悩を抱えた誰かの孤独をちょっとだけ慰めるのが、物語の大きな役割のひとつだからです
(というのが、太宰やらもから俺なりに学んだ小説の解釈なんですが)
実際、広瀬によく似た生きづらさを抱え、空想の世界に逃げ込むことでなんとかやってる少年少女の痛みを小野先生は十分理解されていて、だからこそ本書は生まれたはずです
そして、そんな彼ら彼女らにもっとも近しく共感できる友人として用意されたのが、この広瀬という悲しい語り部なのではないでしょうか?
だから、我々読者は広瀬と違って山に行く必要がありません
幸いにも広瀬という「同胞」を小野先生がちゃんと用意してくれたからです
麒麟でもない、王でもない彼こそが物語のなかへ入ってはいけない我々読者の悲しい代表者なのです
広瀬は山に向かうのかもしれないし、向かわないのかもしれません
なんにせよ、その途中で広瀬自身にとっての「魔性の子」のような物語に出会えればいいと、俺は思います
故国へは帰れずとも、なんとかやっていけるよう力添えしてくれる物語が幸いにも世の中には腐るほどありますから
それは大昔に書かれた物語かもしれないし、いつか未来に書かれる物語かもしれません
たとえいますぐは見つからずとも、どこかには必ず自分のために書かれた物語がある、と思えるだけで結構違うもんじゃないでしょうか?
まとめ
と、ここまで書いて冷静になったんですけど、正気か俺は?
なんだこの文章は? 思春期のテキスト化?
というか、本当にホラー小説の感想なのかこれは!?!?
不由美は俺に何を語らせている!?!?
万里のときもそうだったけど、俺にあまり赤裸々に語らせるな不由美!!!
俺はこういうのを語るのがめちゃくちゃ苦手なタイプなのに傑作に浮かされるとついつい語ってしまう簡単な人間なんだぞ!!!!
とはいえ自分自身も本の世界に逃げ込みがちな少年だったし、実際多感な時期に十二国記を読んでいたらどれほど無駄な空想をしてんだろ……って本当によく思うので、魔性の子はあまりにも刺さりました
人は誰しも心に14歳の自分を住まわせていると言います
そのロウティーンな俺にあまりにも刺さりすぎてしまった結果、彼が俺の自我を食い破ってこのnoteを書したとも言えます
俺の照れ隠しの表現がスリラーなのマジでなに?
総評として「魔性の子」はあまりにも当時の俺のための物語すぎた……
『これは、あなたの物語。』とかいう十二国記のキャッチコピー、伏線すぎる……
穿った見方をすれば、魔性の子は十二国記という物語の序章であり、同時に十二国記という強すぎる物語にあらかじめ誂えられた安全弁であるようにも俺には思えます
十二国記という物語に共感しても、決してあっち側には行けない少年少女に帰り道を示す……そんな役割を果たしているように見えてしまうのは、やや穿ちすぎでしょうか?
こういうテーマ、大好きであるが故に語りすぎてしまいますね
このnote公開しても恥ずかしくてすぐ消しそうな予感さえある……
などと、ごちゃごちゃ語ってしまいましたけども、本日はこのへんで!!
ではでは!!!!!!