私を愛するということ
これは何者でもない人間による自分自身のために書かれた言葉を、誰かに見てもらうように、誰かに認めて貰えるように書き直した言葉。
私はずっと、愛されたかった。
(今もずっとそう思う)
恋愛的な部分、だけではなくて人として愛されたかった。私という存在を愛して欲しかった。
あいされたい
あいされたい
あいされたい
と思い続けていた時、
そもそも愛とはなんなのか、
と冷静になった。
私は私の望む愛が何かを知らなかった。
知らない間に愛してくれる人がいたのかもしれない。
それは失礼すぎるし、勿体ない。大問題だ。
愛というものがなにか知らないのに願い続けているのはおかしい。
北極にペンギンを探しに行き、南極にホッキョクグマを見に行くようなものだ。
考え込んだ結果、
私の中では
愛されること=認めてもらうこと
だということに気がついた。
私はずっと、認めてもらいたかったのだ。
私という存在を。
愛されたいという欲求が少しだけ具体的になったところで、もうひとつ問題が浮かんできた。
何も特性のない人間が、何を認めてもらおうと言うのか。
何も持たない人間が、認めてください!!!!と世間に出たところで
人々は「???」「何言ってんだこの人」
と思うだけだ。ただの変な人である。悪目立ちはしたくない。
私は何がしたいのか、私は何ができるのか。
それすらも分からなかった。
まずは私のことを知ることから始められなければならない。
他人を愛するためにはまず自分を愛することだ
という名言・格言のようなことをどこかで聞いた。どこで聞いたのかは忘れてしまった。
私が私を、愛するため・認めるためには
まずは自分自身がどういう人間かを知ることが大事である。
私のことを知るためには何をすればいいのだろうか。
私は気がついた。今持っている考えでいっぱいいっぱいで、違うことを考えるための余裕が無い、と。
容量がいっぱいのケースの中に新しいものを受け入れる、そんな時にとる手段は、
●ケースの中のものを手放して新しいもののための隙間を開けること。
●もしくはケースの方を手放して容量の大きなものに変えること。
だろう。
そのケースが私の脳みそで、内容物が私の
考え、であるのだとしたら?
そう、簡単に手放すことは出来ない。だから後者を選ぶことは出来ない。
今持っている考えを手放してしまうと、しばらくの間、自分の思考を持たない意思のない、今よりも何も無い人間が世の中に生まれてしまう。それは無理。耐えられない。生きていけない。
だから、そんな私の考えを前に進めるために、私自身が私の内面を知るために、
今までスマホのメモに書き溜めてきた内面、考え方をnoteを通して放出していく。
そして、考えを再編する。その中で今までの自分を見つめ直す。
今後はスマホのメモを参考に思ったことや考えていること、好きなことなどの、私を私とするもの達に着いて書いていきたい。
今は他人に認められることが目標だけれど、
いつか自分の中で本当に自分を認めることが出来たらいいな。
私を愛するということ、という問いの現在の答えは
誰かに認めてもらうこと。
最終的には自分自身で自分を認めること。
誰かに認めてもらうために私はまず、
私のことを知ること。
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