『ホワイトバード はじまりのワンダー』に寄せて
久方ぶりに映画を観たので、記憶が新しいうちに感想を残しておきたいと思う。鑑賞したのは昨日公開されたばかりの洋画『ホワイトバード はじまりのワンダー』である。
※以下に記載している台詞は筆者のイメージによるもので、一言一句正確な引用ではありません。
【あらすじ】
学校での人間関係に悩む中学生のジュリアン。祖母サラとの何気ない会話の中で、”相手が誰であろうと、必要以上に踏み込みたくない、踏み込まれたくない。それしか心に波風を立たせず平穏に生きていく方法はない”という主旨の発言をする。それを聞いたサラは、自分が今のジュリアンと同じ年の頃、フランスがナチスの占領下にあった正にその頃に、ユダヤ人として迫害されそうになった自分を命懸けで救わんとしてくれたある少年の話を始める。
サラの遠い日の記憶は、絶望の淵において、利他の精神に根差した人と人との交流が、"奇跡のような希望"を生むことを物語っている。
【映画に寄せて思うこと】
映画で描かれているユダヤ人への迫害は災いのように突如として降りかかり、そこには理由などまるでない。もしあるとすればそれは「ユダヤ人であるから」という如何ともしがたい性質のものであり、誰もがその理不尽さに釈然としない気持ちを抱くだろう。
だけど私はここで、ともすれば見落としがちなもう一つの"理由なき行為"について言及したい。とある少年「ジュリアン(孫ジュリアンの名は、実は彼の名から取られたものだ)」が少女時代のサラを救おうとしたのにも、その実理由らしき理由はない。彼と彼女は長年のクラスメイトでありながら仲が良かったわけでもなく、サラの方はいじめられっ子だったジュリアンを疎ましく思っていた節さえある。でも、それにも関わらず、ジュリアンは人生にそうとない非常事態のもと自らの生命をも危険に晒しながら、彼女のために動いた。
のちに彼は、"(僕へのいじめに素知らぬふりをしてはいたが)君は他のみんなと違った。勘が鋭い僕にはそれが分かる。だから助けた"とサラに伝えている。この台詞を聞くと改めて、ジュリアンの行為も純粋な善意や彼女への好意からではなく、何となく助けたというのに近い、ある種直感的で理由のないものだと分かる。
こうして見ると「理由がない」ということは、酷たらしい絶望になることもあれば、奇跡のような救いにもなりうる。この映画は人間の心が内包する不可解さや不条理さ、果ては神秘さを描き出しており、それが私たちの生きる社会のあらゆる問題に通じていることを示唆しているように感じた。
一つ、作中で印象的だったサラの台詞がある。"死と隣り合わせのような日々の中、私の中でジュリアンの存在が友達や恩人を超えて、希望の光となっていた"というものだ。
おそらく平常下においては、人は自分に希望を持つことはあれど、他者に希望を見出すことはあまりない。その時はまだ、自分の手足の自由が利くからだ。
けれども自らの手足をもぎ取られ、なす術がなくなってしまった時、人は初めて他者に希望を見出す。絶望の時代においては、他者への祈るような想いこそが希望を生み出す根源となることを、憶えていたいと思った。
【後日譚】
映画の後に、本屋でサルトルの『ユダヤ人』を買って帰った。
また、本作のベースはパラシオのワンダーシリーズであることを観終わってから知った(どうりで副題が『はじまりのワンダー』なわけだ)。そちらも今度また図書館で借りてこようと思う。