読書録:『ゲンロンβ60』より「日付のあるノート、もしくは日記のようなもの 第6回」
はじめに
ぼくは東浩紀をそこそこ読む。そして東浩紀周辺の本も多少読む。というわけで、今は東氏が創業したゲンロンの発行するウェブ批評誌『ゲンロンβ60』を読んでいる(ちなみに、2021年6月5日現在、既に『ゲンロンβ61』も発行されているがまだ追いついていない)。
「ゲンロンβ」は(基本的には)色々な連載記事で構成されている。そのうちの一つが、アーティストの田中功起氏による「日付のあるノート、もしくは日記のようなもの」だ。
ちなみに同連載はゲンロンの提供するサービスの一つ、ゲンロンαというサイトで一部無料で読める。
https://genron-alpha.com/gb060_02/
さて同連載、いったいどういう内容かというと、なかなか説明しづらい。作者曰く
ぼくの中で勝手に切り離していた自分の実践と人生との関係を、この日記のようなものを通して考え直してみようと思っている
とのことだが……。ひとまずエッセイと思ってもらっていいかもしれない(ダメかもしれない)。
ペイシャンティズム
では本題の読書録に入っていく。その前に断っておくと、ぼくはアーティストとしての田中氏を全く知らない。これから書くのは、あくまで単なる読書録である。
同連載で「ペイシャンティズム」という言葉が紹介されている(主には第5回で取り上げられた)。
患者の権利を健常者と平等にしようという考えではなく、病気とともにあるということを基礎にして社会を再構成しようというのが「ペイシャンティズム」である。
ペイシャンティズムは、そのようにして病気と共にある生活からスタートする。それは「病気であること」を、例えば同情を誘うようなものとしてみなさないということだ。
なぜこの語が取り上げられたのかというと、著者の田中氏が病気(といっていいのか、脳の血管が詰まっていたらしい)をもり、手術を控えているからだ。
しかし、それだけではない。
ぼくは自分の手術について、被害者ポジションから語りたいわけではないのだ。被害者ポジションをとることは、批判しにくい状況をつくることでもある。
そうなのだ。
非ー被害者たること。それだ。
『鬼滅の刃』のヒットを支えた被害者性
突然だが『鬼滅の刃』がなぜ売れたかを考えよう。
さらに突然だがぼくの結論を述べると、「登場人物の多くが被害者としての性格を与えられており、それが時代背景にマッチしたから」だと考えている。
『鬼滅の刃』では、悪役=鬼を退治する鬼殺隊の活躍が描かれる。そして鬼殺隊の面々(といっても主要キャラだけだが)の多くは、鬼によって愛する人を殺されるといった過去をもっている=被害者である。
それだけではない。味方だけでなく、悪役=鬼も被害者として描かれているのだ。
鬼は基本的に皆元は人間だったのだが、人間時代にそれはそれはかわいそうな目にあっている(キャラがそこそこいる)。
『鬼滅』は味方だけでなく悪役まで被害者にしてしまったのだ。
それが『鬼滅』のヒットを支えたのだ。
日本社会を覆う被害者性
被害者が描かれた『鬼滅』はヒットした。そして、なにも『鬼滅』だけではない、マンガ・ポップソング・小説などなど、いまやあらゆるポップカルチャーで被害者性が描かれているように感じる。なぜか。売れるからだ。ではなぜ売れるか。
多くの日本人が「自分は被害者」だと無意識に思っているからではないか。
分断と不寛容が支配的なモードとなり、共同体は解体され、人々は寄よるべなく人生を生きている。そんな時代にあって、我が身を守るための方便として選択されたのが「被害者としての私」なのではないか。
念のため言っておくと、本当に被害者と呼ぶべき人々は現代日本に大勢いるだろう。そういうひとびとに対し自己責任論を押し付ける気は毛頭ない。
それはさておき、今ここでぼくが問題視するのは、「なんとなく、無意識に自身を被害者視すること」だ。そして、もっというと、「『なんとなく、無意識に自身を被害者視すること』を問題視しないこと」だ。端的に、自己批判精神の欠如といってもいいかもしれない。
翻って、「『なんとなく、無意識に自身を被害者視すること』を問題視すること」は、先に引用した田中氏の「被害者ポジションから語りたいわけではない」という態度に通じる。
こうした態度こそ、現代日本に必要な態度ではないだろうか。
そしてなにより、こうした態度を備えたエンタメ作品をこそ、今僕は求めている。そういう作品を作りたい。「被害者としての私」たる主人公が被害者性を乗り越える作品。
ん~、書きたい。いい作品を。
おわりに
書ききれなかったこととして、日本における「被害者としての私」がどのように現れるか、というのがある。
なんとなく、(本当になんとなくて、明確な根拠はないが)日本人は「他人の足を引っ張ること=マイナス方向」の調整が強いような印象がある。例えば生活保護受給者へのバッシングのような……。
こうした態度の背後に、「被害者としての私」があるのではないかと思っている。つまり、「私はこんなに苦労して金を稼いでいるのに、(実際はそうではないはずだが)何の苦労もなしに金をもらい安穏と暮らしている人間がいる。そういうひとびとと比べると私は相対的に被害者だ」といったような歪んだロジックが作動しているのではないか。
そのうち、別記事でこんな感じのことを書きたい(書きたいといって続きを書いたことはほとんど全くないのだが、このテーマは今かなり僕のなかでアツいのでちゃんと書くと思う)。
さらに、日本人の自己批判精神は本当に死んだのかどうか、みたいなことも真面目に考える必要はある。特にポップカルチャーの文脈においてどうかに関心がある。関心があるだけで知識はないから始末に負えないのだが……。
ともあれ、この記事はとりあえずここで締めることにする。ごきげんよう。
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