『カラミティ』感想 「弱い」主人公の可能性について
はじめに
『カラミティ』は9/23公開のフランス・デンマーク合作のアニメ映画だ。輪郭のないフラットな絵柄がとても印象的で、日本のアニメとは全く異なる映像体験を提供してくれる。
簡単にあらすじを紹介する。
西部開拓時代のアメリカで、幌馬車隊の一員として父妹弟とともに西へ旅をしているマーサ・ジェーン(12歳)。父の負傷をきっかけに、家長として「男らしく」振る舞うことを選択するマーサ。しかしこの時代、女性のそのような行動は許されるはずもなく、幌馬車隊内で鼻つまみものとなる。そんな折、野生の獣に襲われているところを騎兵隊のサムソンに助けられ、彼を幌馬車隊に引き合わせる。しばらくサムソンとともに旅を続ける幌馬車隊の一同だったが、やがてサムソンが蒸発してしまう。同時に、一同の貴重品が盗まれたことが発覚する。マーサに濡れ衣が着せられ、マーサ一家は幌馬車隊を追放されることになる。家族を守るため、マーサは単独でサムソンを追跡する……。
あらすじだけではなかなか伝われないと思うが、滅茶苦茶しっかりしているのです。直近で視聴したアニメ映画、スタジオジブリの新作『アーヤと魔女』(劇場版)と比較すると、『カラミティ』の方が圧倒的にストーリーの密度が高い。なぜ『アーヤ』はああなってしまったのか。
『アーヤ』はさておき、『カラミティ』の感想を簡単に書いていく。
①独特の映像で表現されるアメリカの大自然
やっぱり絵が良い。絵が。
日本のアニメに慣れてしまったオタクたちは、この絵だけで視聴を避けてしまいそうだが、それはあまりに見識が狭い。日本のアニメの可能性をもう一度考え直すためにも、他者たる外国産アニメにぜひとも触れてほしい。とりあえず、公式サイトの予告編だけでも見てほしい。
上の画像は予告編のワンシーン。夜の映像が大変きれいであった(当然、このシーン以外にも夜のシーンがある)。そして夜は、幌馬車隊の一員であるマーサが自分らしく振る舞うことのできる時間であった。
マーサの父は、斜面を馬車で駆け降りる際に脱輪させてしまい、馬車から弾き飛ばされてしまう。また、馬がいきり立った際、投げ縄をかけて押さえつけようとするが、逆に馬に振り回された挙句に踏みつけられ、あばらと足の骨を折る大けがを負う。
要するに、マーサの父は「不甲斐ない男」として描かれる。しかしマーサは父を投げ縄の達人=「男らしい男」という。
そんなギャップを隊の少年に執拗に突かれたことがきっかけとなり、マーサは自身で馬を駆り、投げ縄を投げるようになる。馬に乗るためにスカートをやめ、ジーンズを履く。女がそんなことをして許される時代ではないので、マーサは皆が寝静まった夜にこっそりとひとり訓練するのだ。
夜、ひとり椅子に向かって縄を投げ、ジーンズ姿で馬を駆るマーサ。夜にこそマーサは自分らしくあれる。そんなストーリーともあいまって、『カラミティ』の夜は美しい。
②ノスタルジーを掻き立てるカントリー・ミュージック
押井守は「映画の八割は音楽」と言ったとか言わなかったとか(出典不明)。それはともかく、映画に劇伴が欠かせないのは間違いない。アメリカ中西部を舞台にした『カラミティ』の劇伴は、当然カントリー・ミュージックだ。
といっても、本来、カントリー・ミュージックと中西部はあまり関係ないらしいが。それでも、事実として中西部とカントリーは結びつけられてしまっている(なぜだろう?『バックトゥザフューチャー3』?)。素直に楽しもう。
カントリー・ミュージックの素朴でノスタルジックな感じが、映像と非常にマッチしていて心地よい。視覚と聴覚がごく自然に調和する。映画に求めるのはこういう体験なのだ。
いま、ぼくが想定しているのは『竜とそばかすの姫』である。『美女と野獣』にインスパイアされて制作されたことからもわかるように、同作では歌がフィーチャーされている。しかし、これがなんともストーリーとマッチしない。曲そのものが良いだけに、ストーリーの空疎さが際立ってしまっていたように思う。
『カラミティ』はすべてが調和していた。ストーリー、映像、音楽。これが本来の姿なのだが、最近観たアニメ映画は「それ以前」のものが多すぎた。『カラミティ』を視聴し、ようやくぼくは自然に帰れたのだ。素晴らしい。
というわけで、視聴の際は、ぜひとも音楽も楽しんでほしい。
③自分らしく生きる「強い」人物像について
『カラミティ』の日本語版キャッチコピーは、「家族を支えるために、少女は髪を切り、ジーンズをはいた。」である。このコピーから容易に想像できるように、本作は女性が「髪を切り、ジーンズをは」くことが当然視されない時代の物語である。そんな時代にあって、慣習的な「女性らしさ」を受け入れず、自分らしく生きる、マーサが描かれた物語である。
自分らしく生きる。もちろんそれは現代的には良いことだ。しかし、ここで本当に問題にすべきは、自分らしく生きるかどうかを「自己決定できる」ことではないか。
マーサは、はなから女性らしさを受け付けない。物語の始まった当初から、男に罵声を浴びせ、殴りかかる。マーサにとっては「非-女性らしさ」が所与のものとしてある。『カラミティ』は、「非-女性らしい」マーサが、意志と信念を貫き行動し、結果として共同体からの承認を得る物語であった(ネタバレ回避のためぼかして書いているが、要はそんな話であった)。
いい話である。しかし、意志と信念を貫き通すのは、極めて「強い」人物ではないか。果たして現実にそんな人物がどれくらいいるだろうか。そもそも、貫き通すべき意志や信念を、どれほどの人がもっているだろうか。
以下は、もはや『カラミティ』の感想ではないことを予め断っておく。
マーサはあまりにも強い。非現実的なほどに。エンターテイメントなので別にそれはそれで構わないのだが、それでもやはり、現実を写す鏡としてエンターテイメントを構想したい気持ちがある。すなわち、もっと「弱い」主人公をこそ、エンターテイメントは描かねばならないのではないか、と思う。
そして、ここにこそ現代日本のエンターテイメントが抱える困難があるように思う。端的に、現代日本のエンタメ(というか、アニメ?)は、「弱い」人物=「絶対的被害者」としてしか描けなくなっているのではないか。
『鬼滅の刃』を思い出そう。同作では、敵味方のかなり多くがかわいそう=「被害者」ではなかったか。そんな単純な図式でしか、読者の共感を得られないと、作り手の側が信じ込んでしまっているのではないか。
その信念は誤りであると思いたい。加害と被害の対立を超えたところにこそ、読者の求めるものがあると思いたい。そんな作品を作りたい。
このままだと収拾がつかなくなるので、この辺で強引にまとめる。現代の世相を考慮すると、「強い」人物ではなく「弱い」人物を描く必要があるように思う。しかし、現代日本のエンタメ業界は「弱い」人物を非常に短い射程でしか捉えられていないように感じる。「弱さ」の射程を伸ばすにはどうすればよいか、これから考えていきたい。