数日間続いた寒波がぴたりと止んだ。心なしか暖かく感じる夜に、私はひっそりと釣竿を持ち出す。春泥はまだ遠いが、一足先に海の中では春告魚ともよばれるメバルの荒食いが始まり、水面は漂うプランクトンを追いかける炸裂音で賑やかだ。誰もいない漁港に、磯場に、そうして私は立っている。先人がそうしたように。そして後から来るものがそうできるように。
魚釣りはそれほど難しい行為ではない。手頃な道具を持って水辺に立てば、なんやかんやで魚は釣れる。しかし特定の魚種、特定のサイズを狙うとなると話は変わってくる。ときにそれは何日にも何ヶ月にも及ぶ試みとなり、あるいは年単位の計画にもなってくる。だから釣り人は足繁く水辺を歩く。必ずしも竿を持っていなくとも良い。毎日定点観測をするだけでも情報収集ができる。例えば仕事で外回りをしているとき、ちょっと小川を通る。するとボラの幼魚の群れが先週より大きくなっていることに気づく。スーパーマーケットで地物の魚が安売りされている。それを見て、小魚の大きな群れが接岸していることに気づく。南岸低気圧が近づく。また海中の季節が進んで行くことを知る。釣り人は生活や仕事の中でも釣りをしているのだ。竿を持つことはそのような積み重ねの最終局面に過ぎない。
ここまで来ると彼にとって、釣りとはもはやその人生を豊かにする数多くの手段の一つではない。生活の中に非日常としての釣りが存在するのではなく、釣りの中にこそ日常が存在するのだ。その地点では、もはや釣果(=釣れた魚)は二の次だ。それよりもどれだけ「私の水域」の魚に向き合えるのか、あるいは寄り添えるのかに焦点が当てられるだろうし、魚が釣れるということはそのような姿勢の一表現に過ぎない。
人より沢山釣る。あるいはより大きな魚を釣る。そういう点に釣りの美徳を見出す人は多いが、私はそれは単なる「魚殺し人」の論理だと思う。釣りの目的を魚が釣れるか釣れないか、という点に矮小化した時、人はあらゆる手段が講じてそれを達成するだろう。そして私の水域で現在起きているように、釣り場はゴミと人で溢れかえる。彼らがすべてに飽きたとき、魚の姿は絶え、きっと海はまた忘れ去られるのではないだろうか。このような負の連鎖の中で釣り上げた一匹は、結局のところ彼の余暇と鬱屈を埋めるための、究極的には他の行為で代替可能な一匹の魚にすぎない。
どうせなら私は代替可能な一匹の魚を釣る「魚殺し人」ではなく、ここでしか出会えない魚に向き合う「善い」釣り人でありたい。確かにそれが具体的にどういうことなのかを語ることは難しい。古代ギリシアにおいて、「善く生きる」ことがある共同体の世界観の内でしか理解することができなかったように、釣り人の「善い」は釣りという行為の内側にのみ存在している。少なくとも言えることは結果には執着しないということだろうか。釣りの結果ではなく、その過程に目を向けること。それは眼前の一匹ではなく、その魚を通じて背景に立ち現れる海洋の大きな動態や自然と関わり続けてきた人間の歴史へと目を向けることでもある。実際のところ、釣りはそういった巨視的な視点がないと長続きしないものだ。釣り人にとって「善く釣ること」は、いわば自身のライフスタイルに対する体系だった考えであり、一個の芸術であり、実践的な哲学の一ジャンルに属する叙述方法なのだ。この時、この場所、この魚。そしてこの私。時間と空間が交錯する唯一無二の場所性。そういった代替不可能性こそが「善い」釣りを作り、釣りに「味」を添えるのだろう。そしてその「味」こそが釣りを単なる魚殺しから分かつ鍵なのかもしれない。
潮が満ちるとともに賑やかな炸裂音はより強く、多くなっていく。もうしばらくこの様子は続くはずだ。そうしていつしか潮が引き、風と波が入り混じった静寂が訪れ、メバルの存在が水中深くに隠れる頃、次の朝が来る。誰も知らない夜半をこうして私たちは生きている。次の寒波もすぐそこまで来ている。それまでのこの凪のひととき、釣り人は暗い渚を歩く。これからも私は、人目に触れないその足跡を書き残していこうと思う。