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深く、深く静かな

この人はどんな風に触れるんだろう。
手首の外側にぽこっと骨の形が浮き出ている手の持ち主を見ると、真っ先にそう考えるようになってから三年が経つ。
そういう手をもつ人というのは、大体が男の人だから、わたしはその手が触れる髪の毛を、首筋を、鎖骨を、乳房を、おへそを、脇腹を、女性器を、太ももを、つま先を、指先を思い描いてため息を漏らす。わたしの中におこる熱を、空気の中に逃すように。

きっと、その手が触れる体は。
左右対称に鎖骨が浮き出ていて、そこまで主張してこない胸がなだらかな稜線を描いて続いている。おへそは綺麗な縦型で、脇腹はシーツの波間に漂っていてもなお、しっかりくびれているに違いない。
おへそから下の方に向かってたどって行くと、程よい濃さと長さの毛が望ましい範囲で生えていて、その奥に潜む粘膜はうるうると充分な水分を湛えているのだろう。
四肢の先にはきちんと手入れされた二十本の爪が慎ましやかに、それでいて凛とした佇まいで乗っかっていて、爪の裏側0.2ミリまでマニキュアが塗られているはずだ。手の爪には肌馴染みの良いグレージュの。足の爪には遠くからでも主張してくるボルドーの。彼女の爪は、触れる手の持ち主の上腕に食い込む。ゆるゆると持ち上げられ、手の持ち主の髪の毛をつかむ。
そして、手首の外側に骨の形が浮き出ている手が、彼女の白い肌を撫でると、お腹の辺りがひくひくと震えるのと同時に、小さな笑い声が降ってくる。あるいは、腰がぴくん、と小さく痙攣して意図せず漏れた吐息混じりの声が肌をくすぐる。
わたしはその手が彼女の肌を、体を滑り落ちてゆくさまを、じっと観察していたい。
それが夫の手だということには随分前から気付いているのだけど、そのことについてはあえて考えないようにしている。

先月、運転席のフロアマットの下に、知らない店の名前が入ったカードが落ちていたのを見つけてしまった。裏面を見ると、「今日は逢えて嬉しかった♡  優しくしてくれて気持ちよかったよ♡♡ 次もいろんなことしようね   のあ」と頭の悪そうな文字でメッセージが書かれていた。
この出来事にどんな思いを抱くべきなのか分からず、そのまま元の場所に戻しておいたら、ある日そのカードはなくなっていた。

夫がわたしに触れなくなってから、三年になる。


「こんにちはー、イリスです。今日もカードリーディング始めていきます。今日のテーマは、あなたの隠れた才能。ガイドさんたちがね、この力を活かすと、今よりもっと生きやすくなるよーってあなたにたくさんメッセージを送ってくれているのでね、それを今日は聞いていこうかなと。今日使うのはこちらのタロット。綺麗ですよね。トルコだったかな、そちらのアーティストさんのデザインで……」

修学旅行の引率をした代わりに与えられた木曜の休日、偶然にたどり着いた動画だった。
iPhoneの画面の中、女性にしては低く落ち着いた声の主が、手の中でその掌には余る大きさの水色のカードを器用にシャッフルする。
画面の中には、黒い布と音叉、水晶の塊のような白っぽく見える結晶、そして少し日焼けした手だけが映っている。
柔らかいブラウンとゴールドで彩られた縦長の爪。節のように浮き出た指の関節。人差し指と小指に重ね付けされた、石やデザインのない細いゴールドの指輪。放射状に広がる甲の骨。そして何より、手首の外側の骨の形。そこにわたしは釘付けになった。
カードを並べる手がひらひらと動く。シャッフルし終えたカードを左側に置き、右に向かってさっと広げていくときの右手、その角度で見る手首の外側の骨が夫のと同じようになだらかな三角形をしていることに気がついてしまった。彼女の手がより綺麗に見える角度で動画を一時停止。小さな画面で見つめるには惜しい。
リビングのテレビで再生し直そうか。否、リビングに隣接する小上がりになった小さな和室で夫が仕事をしている。拒絶はしないと思うけど、いい顔もしないだろう。
わたしはベッドにうつ伏せになったまま、止まった画面の中、手首の外側の骨を見つめている。

この骨に、触れたい。舌を這わせて、その感触を指先よりももっと、わたしの内側で感じたい。

その願望の正体が、欲情だと気付くのに必要な時間は、ほんの一瞬だけだった。わたしの舌先があの手首の骨をたどる様子を想像すると、膣の奥、体のずっとずっと深いところに、きゅうっ、と疼く感覚が走った。施しを待って、期待して、子宮が鳴いているんだと思った。その感覚は湧き出る泉のようにひたひたと、おへその近くにまで広がって染み込む。尾てい骨の上あたりに、放電する毛玉が身じろぎしていた。
わたしは仰向けになり、ルームワンピースの裾をたくし上げて下着を脱ぎ捨てた。膝を立て、自分のあまりになだらかな左手首の外側の骨を舌の先で撫でながら、右手を伸ばして潤んで息づく粘膜に中指を這わせる。
カーテンを閉め切っていて昼間なのに昏い寝室で、同じくらい昏く湿った情動に突き動かされているわたし。夫に手書きのメッセージを残した見知らぬ女と、壁一枚隔てた向こうで働いている夫を思う。わたしの指先は、熱を孕むぬかるみの中へ少しずつ沈んでいった。……唇がほどけて、吐息。

わたしの奥深くに沈む甘やかで静かな衝動は、だれも知らない。




あこさんのタイトルお借りしました。
「深く、深く静かな」という呪文でわたしの底から呼び覚まされた、嘘か本当か分からない話。
……なんてね。