【海賊版】遠い日の不良に言えないはなしの前段
※本記事は本田すのうさん主催「下書き再生工場」企画にて三毛田さんの手により再生された、コニシ木の子さんの下書き『遠い日の不良に言えないはなしの前段』の海賊版です。
隔月刊とはいえ二つの雑誌に漫画の連載を抱えているので、基本的に休みなどはなく、過労死ラインって何ですか初めて聞きましたけど、状態で稼働している。
一方の雑誌の締切を間近に控えた十月の朝、莉花から久々に連絡があって、その主旨はまともな稼業、要するにどこかの組織に所属して労働を提供する代わりに金銭や福利厚生をいただく営み、から遠ざかって久しい私にはそれはそれは一生縁なんてなさそうなものだった。
いわく。
「ひさしぶり。前田と結婚することになったよ。来年札幌に戻って結婚式するから、亜衣にも出てほしい」
いつから。どうして。なんで。
胸の奥にしまい込んで忘れていた何かの破片が、にわかに存在を主張し始める。その微かな痛みは私の体温をわずかに上げて鼓動を自覚させるには十分で、あの頃見つめ続けた横顔をありありと思い出させた。
前田。
私の描く漫画には未だに彼の影が色濃く落ちていて、前田の面影を引きずった男はヤンキーだったり警察官だったりAV男優だったり様々に姿を変えながら、可愛い系の配信者だったり元ヤクザだったり新人AV男優だったり、とにかくいろんな男を抱いている。前田の面影を追って描いていたらBLに行きつき、いつの間にか「攻め様の神」とかいう何のご利益もなさそうな神に認定されていた。
前田。
十年ぶりにその名前が、漫画の中の私の妄想としてではなく、実体を伴って私の眼前に迫ってくる。そこから逃げるように、なのか、立ち向かっていくように、なのかわからないけれど、ほぼ完成した原稿の男性器に白抜きモザイクをかける作業に戻ろうと液晶タブレットに向き合うことにした。でも、結局上手く行かずに高校時代に引き戻される。
前田とは二年生で同じクラスになった。男女別の出席番号順で席に着いたときに隣に座ることになったけれど、親しく話したり連絡先を交換したり、という高校生にありがちなイベントは特に発生しなかった。というのは、前田は分かりやすく校則違反をしている「不良」で、私はそれ以上に分かりやすい陰キャのオタク女だったので接点など何もなく、でも私は前田の顔が好きだった。
すっと通った鼻筋を上にたどっていくと、程よい角度のついた眉。その下のまぶたは一重でありながら、目が細すぎるということはなく、いつも引き締まった厚めの唇ととてもよく合っている。暗いシルバーカラーの無造作に流された前髪が涼しげな目元に淡い影を落とし、なんとも言えない色気があった。まつ毛は横から見たときに重たげな瞼からほんの少しだけ飛び出していて、その「ほんの少し」具合が可愛らしくもある。思春期なのに少しも荒れていない肌というものが、羨ましいという感情を通り越してもはや神々しい、と自分の顎に長いこと居座って痛みを伴いながら存在を主張してくるニキビを気にしながら思っていた。
と、前田の顔面に関してはいくらでも描写ができるのだけど、私が好きだったのは何より、耳。耳たぶの形がとにかく美しかった。薄く、なだらかに顔の輪郭と繋がっているそのまったく主張してこない左の耳たぶに、三つのピアスが並んでいて、さらに耳の縁に二つ、耳の穴の近くの顔側、三角形に張り出している部分に一つ、銀色のピアスが光っていた。ピアスは小振りの輪っかの形だったり、小さな球形のものだったり、その時々で変わるけど、シルバー以外のものは見たことがない。右耳には何もついていなかったし、穴も開けられていなくてそれはそれでもちろん綺麗な形だったけど、前田の耳はピアス込みで完成される美しさなんだと思った。
教師にギリギリバレないメイクにも一切手を出さず、中途半端に伸びた髪の毛をポニーテールとも呼べないひっつめに括っていただけの私なので、当然ピアスを開けようという気もまったくなかったのに、前田の耳と出会ってしまったせいで彼の軟骨に開けられたピアスがヘリックス、そしてトラガスという名前であると知った。というか調べた。ピアスの位置によって、その名称が変わるなんてことも、知らなかった。
私は授業中にいつも前田の横顔を、というか左耳を盗み見て繰り返しスケッチしていた。前田は数学と日本史の授業では大体堂々と居眠りをしていたので、盗み見し放題、描き放題だった、ブレザーの下に着ていた明るいグレーのパーカーのフードがその耳を隠していないときには。そしてそんなことを一ヶ月半も続けていると、耳介の凹凸まで正確に、実物を盗み見ることなく描けるようになっていたのである。
「変態じゃん」
同じ中学からの同級生で、一緒に漫画研究部に所属していた莉花は私の前田の耳だらけの数IIのノートを見ながらゲラゲラ笑った。数学は苦手で授業がまったく理解できなかったけれど、前田の耳の美しさを証明する方程式だったり、グラフ上に前田の耳を描く関数だったり、そういうもののテストなら絶対に満点が取れると思う、と熱弁をふるった流れでのことだった。
雨がちな天気の合間に晴れた日。漫研の活動場所である被服室にも久しぶりに自然の光が入り、私が描いたいくつもの耳を照らしていた。
夏が慌てて飛び込んできたような放課後だった。私は紺色のブレザーを脱いで天板の下の物入れに置き、部誌の原稿に取り掛かる。部誌が発行される七月の学校祭までには、まだ少し余裕がある。とびきり可愛い女の子と素敵な男の子の「その先」を予感させるような、絡みのある構図を描きたいかも、とシャーペンを動かしていたのに、気が付けば見覚えのある耳が真っ白な紙面に錬成されていて、それを見た莉花にまた「いや、キモっ。どんだけ好きなの」と笑われた。
向かいに座っていた一年生の木村君には「すげーリアルですね。むしろ美術の方では」と持ち上げられてこそばゆくなり、わざわざ席を立って見に来た部長には「色々なタイプの耳を集めて並べたら、現代アートとして売り出せそうじゃない?」とアニメみたいな声で言われ、そうじゃないんです、わたしが興味あるのはこの耳だけなんです、と弁明したくなるのを必死で堪える。
莉花は耐えられない、と言った様子で吹き出し、その拍子にペットボトルのお茶をこぼしてペン入れまで進めていた原稿を台無しにしていた。
結局私と前田の距離感は終ぞそんな感じ、つまり仲のいいグループに所属したり、一対一の関係を結んだりすることにはまったくならない感じで、一方的に前田を盗み見てはスケッチするだけだった。必要な業務連絡のためだけに会話する間柄、その会話もこの二年で十回あったかないか、くらいなもので、何の進展もなく卒業の日を迎えた。絵を描くことだけが生き甲斐の地味なオタク女の私と、校則違反を繰り返し注意されてもその時に口先だけで謝って、いつしか教師からもそういう生徒だと目溢しされるようになった前田では、住む世界が違いすぎた。
卒業式後の最後のホームルームも終わり、校舎を出たところで私はこの学び舎というものに対して、何の感慨も抱いていないことに気がついた。国立大学の後期試験がまだ終わっていなくて、一応進学校の類に名を連ねている我が母校では長期休暇中の講習に余念がない。明日からも志望校別の後期試験対策講習は続き、登校する予定が詰まっている。卒業したんだという実感のないまま、卒業証書を手にしている。
卒業式に参列していた親からの「先に帰ってる」という連絡を受け、私は校門に向かって歩き始めた。こういう場合、仲のいい友達やクラスの仲間たちとどこかに遊びに行ったりご飯を食べに行ったりするのかもしれないけど、私は一応まだ受験生だし、周りの子達もみんな似たようなもので、そんな華やいだ雰囲気からは程遠い。北国の三月一日はまだ白く閉ざされ、何なら地面と同じ色に分厚く積み重なった雲から湿った雪がひっきりなしに降り続いていて、解放感というものにも浸りにくかった。
「おい」
その声を音としてはキャッチしていたけれど、最初は自分に向けられているものだということに気が付かなかった。何度かスルーしたのち、宮村、と苛立ち混じりの声色で呼ばれたことで初めて自分に話しかけられていたのだ、ということを理解する。
立ち止まって振り向くと、降り止む気配のないぼたん雪のフィルターの向こう、先週の登校日より明るい銀髪の前田がズボンのポケットに両手を突っ込んで立っていた。私は前田の声を彼のものだと認識できるほどには聞いていなかったのだ、とその事実に少なからず衝撃を受ける。この頃には耳だけでなく、彼の全身をそらで描ける程度にはなっていたから。とは言いつつ、会話もほとんどしたことがなく、授業中に積極的に挙手するような人でもなかったから仕方がない、という言い訳も即座に思いつき、果たしてこれは誰への、あるいは何への言い訳なのかもよくわからなかった。
地味女と不良くん、の構図はあまりにもベタで、量産される少女漫画とそれらを原作とする恋愛映画の設定にもなりはしない。なのに普段の私たちの関係からするとあまりにも異質で、次々と玄関から吐き出される同級生の視線を感じる。中には露骨に冷やかしていく男子や、不快感を露わにする女子もいて、彼らは大体前田と同類だった。
前田はそんなことはまったく気にも止めない様子で「お前さ」と言いながら私に近づいてくる。
「いつも俺のこと見てただろ」
その後のことはよく覚えていない。なんて返事をしたのかとか、どんなふうに振る舞ったのかとか。そもそも返事なんてせずに逃げるように帰ってきたのかもしれなくて、前田とはそれっきり会っていない。彼は卒業後の講習にも参加しておらず、それで早々に進路が決まっていたんだと察した。クラスの子達の噂話で、東京の有名私大に合格していたことを知り、頭が良かったんだなぁ、お金持ちの子なんだなぁということをなんとなく思った。そして、二年間見つめ続けていたにも関わらず、私は前田のことを何も知らなかったんだって身勝手に軽くショックを受け、そんな自分に少し驚いた。
あの日の帰り道、車道は濡れたアスファルトがむき出しになっていた。中央分離帯に残されている溶けかけたざらめ雪が、融雪剤と排ガスで黒くまだらに薄汚れていたことだけ、妙に印象に残っている。
私はモザイクをかける作業を一旦切り上げて漫画の原稿を閉じ、新規キャンパスを立ち上げた。下描きレイヤーに水色の鉛筆ブラシで大まかにラフを切っていく。手を繋いで歩きながら、軽く視線を交わし合う男女を、後ろから描いた構図。
モブじゃない女の子を描いたのは、高校を卒業して以来だった。私は少女漫画が描きたかった当時のことを思い出す。自分には縁遠い恋愛というものに憧れて、漫画という表現に挑んだのだった。いつしか前田の面影を背負わせた、前田の耳を持つ男子ばかりを相手役として描くようになり、その度に胸が痛んだ。自分で自分の生み出したヒロインが好きになれず、かといって主人公に自分を投影するほど図々しくもなれず、相手役の男の子が魅力的になればなるほど、恋を成就させることができなくなっていった。
その耳を間近で見ること、触れることのできる女の子が、羨ましくて、憎たらしかった。相手が男なら平気だと気がついてしまったことが、今の私の漫画家としての方向性を決定づけている。そうしてまで、私は前田が描きたかった。前田だけが、私の描きたいものだった。
一時間ほど集中して作画にあたる。新規レイヤーを重ね、今度は黒のミリペンブラシで水色の描線を整えるようにペン入れをしていくと、制服を着た十年前の前田と莉花の姿が液晶画面に浮かび上がった。当時、二人のこんな姿を見ていたわけではない。ずっと莉花と一緒につるんでいたので、彼らにも接点なんてなかったと断言できる。
下描きレイヤーを非表示にし、簡単に色をつけると、画面の中の二人はさらに生き生きとし始めた。仕上げに莉花の頬にさっと紅をさし、前田の左耳にピアスを描き入れると、本当にこんな二人をずっと傍らで見つめていたかのように思えてくる。
あの日、前田に言いたかった、言うべきだった言葉の代わりに、私は莉花のLINEに返信する。今描き上がったばかりのイラストの余白に、メッセージを書き入れて。
凝って固まった首をぐるりと回し、大きく伸びをする。腕を下ろす勢いで息を吐きながら窓の外に目をやると、淡く混じり気のない青が街並みの向こうにまで広がっていた。
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