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裏・グレースと伝令者テオリア
今は昔。
ハイノンという国の北の果て、カドゥーホイの街に、グレースという女がいた。
貴婦人であろうと心がけていたが、近所の寺子屋に手伝いに行っている、先祖代々庶民という由緒正しき庶民の血筋の女であった。
グレースは寺子屋の仕事を愛していた。
子どもたちは素直でかわいらしく、新たな学びを得ることが嬉しくてたまらない、というようにあらゆることを吸収し、成長してゆく。
その様子を見ることが、グレースの喜びでもあった。
しかしその実、グレースは日々に倦んでいた。
人生とは、日々の積み重ねである。
詰まるところ、グレースは人生に倦んでいたのである。
変わり映えのしない毎日。
子どもたちは日々成長し、未来を作っていく。
わたしは十数年、この寺子屋で子どもたちを見守ってきたが、自分自身という観点で見たらどうであろうか?
毎日毎日同じ時間に起き、同じ時間に寺子屋に顔を出し、同じことを子どもたちに教え、同じ時間に帰宅し、同じ夫と顔を合わせて食事をし、同じ犬の散歩に出かけ、同じ時間に眠る。
同じことの繰り返しだ。
停滞、している。
グレースはそのことに気がついて震撼したが、もはや彼女の手には負えない、どうしようもない強大な「潮流」のようなものがあり、抗えないと悟っていた。
寺子屋での仕事は嫌いではない。
たとえ停滞していたとしても、この仕事をしているうちは安泰なのである。
この仕事の(というよりも雇用主のと言うべきか)信用により住宅ローンを組めたということもあり、今更引き返せないと自身を納得させていた。
グレースは、子どもの頃から文章を書くことが好きだった。
否、好きかどうかというよりも、比較的すんなりと「書けた」のである。
自身が寺子屋に通っていた頃には、周りの子どもたちには全く歓迎されていなかった日記の宿題に何の苦痛も感じていなかった。
物語を読んで思ったことや感じたことから思考を広げ、自らの想いを綴っていくことも得意だった。
その当時好んでいた作家の物語を全て読み終えてしまったから、と自身でその作家になりきって創作していたこともある。
耽美物語に傾倒し、同好の士と薄い冊子を作成したこともあったのだ。
今でもその頃の情熱を思い出さないこともないではなかったが、一瞬灯ったその明かりも、日々の波に流されているうちに消えてしまう。
特に、寺子屋勤めをするようになってからは、自らすすんで吹き消しているようなところもあった。
その日、グレースの胸には、生涯幾度目かの灯火が微かに明滅していた。
子どもたちが帰った後の夕暮れどき。
寺子屋を掃除しながら、その灯火も今まさに燃え尽きんとしていたところだったが、グレースの目に一冊の帳面が留まった。
教卓の上にあった夏の木の葉と同じ色をした表紙のそれは、古めかしくはあるが、薄汚れているわけではなく、それどころか却って清浄な淡い光を放っているかのようにグレースには見えた。
もちろん、彼女の持ち物ではない。
見覚えもないので、子どもの忘れ物でもないだろう。だいいち、子どもの忘れ物にしては趣味が良すぎる。
昼間、視察に来ていた役人の忘れ物だろうか。
中身を確かめて、しかるべきところに報告しよう、とグレースはその帳面の硬い表紙を開いた。
果たして、その帳面には、さまざまな人々の喜び、絶望、教訓、理想……ありとあらゆる経験や知恵というものが手記の形で綴られていた。
書き手は一人ではなく、不特定多数のようである。不思議なことにその帳面は、一度閉じてからまた開くと、新たな文面が現れるのだ。
間違っても役人の忘れ物ではないことは明白である。
グレースは夢中で読み耽った。
そして、胸に熾った灯火はより一層煌々と燃え盛り、いつしか彼女もページに自らの人生を綴るようになったのである。
もう、彼女はその灯火を自らすすんで吹き消す、といったことはしないだろう。
そんなある日、いつものように帳面を開くと、新しく追加されていた手記にグレースの目は釘付けになった。
それは、カドゥーホイの遥か南西、ラーナという古都の、テオリアという一人の母親が綴った物語である。
そこに書かれていた物語は、だいたいこんな感じである。
グレースはすぐさまテオリアに追随し、自らも歌うことを決めたのである。
テオリアの一助となろう。
そしてテオリアの物語をもっと間近で見るのだ。そんな決心であった。
その後の物語は、正史には語られていない。
この顛末を最初期から観測し、記録していたある男性は、後年この出来事について聞かれた際には、このように答えている。
「何の共鳴を見せられているか理解が追いつかなかった。わけがわからない」と。
しかし、その後、古都ラーナでは数多の鹿が。
そして極北カドゥーホイではいくばくかの乳牛が。
彼女たちの歌に呼応し、集まり、どこかへ去っていったと証言する者たちもいたという。
(了)
ゆらゆらミルコさんが素敵なファンタジーを書いてくださったので、そのアンサーストーリー。
めっちゃ楽しかったです! ミルコさんありがとう!!
猛者のひしめくnoteで創作なんてなんのはなしですか?
参加してます。42日め。
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