空と契る、或いは九月の桃
妻があまりにパイナップルや梨、りんごといった果物ばかり食べるので、わけを尋ねると
「子宮の内側を柔らかくしているの」
と言う。分からない、と正直に伝えるとさらにこう付け加えた。
「酢豚にパイナップルを入れるのは、お肉を柔らかくするためでしょう? 鶏むね肉をりんごや梨をすりおろしたのにつけておくと柔らかくなるのも、パインと同じでたんぱく質分解酵素のはたらき。だから、子宮を、ね」
妻の声は淡く、ともすれば十二畳のリビングダイニングルームの空気に溶けて見えなくなってしまう。それくらいに透明なのに、いつも密かな決意や確信というものが込められていて、決して僕の素通りを許さない。綿あめにテグスをまとわり付かせたような言葉を発する。体内に取り込もうとすると溶けてしまうのに、異物が残って決して飲み込めない言葉を。
妻は「食べすぎると舌が荒れるよね」と言いながら、扇形に切ったパイナップルを口に運ぶ。化粧っ気はないが、形の良い厚めの唇の向こうに消えていく鮮やかな黄色を見つめながら、そういう果物を食べてもたんぱく質分解酵素は人体には作用しないのではないかと思った。
トースト、目玉焼き、ミニトマト、コーヒーの朝食を済ませ、僕は仕事に出かける。今日は年に数回訪れる土曜授業の日で、チョークで汚れる指先や甲高い小学生の声なんかを思うと、朝から気が重かった。降るか降らないかという具合に白く厚い雲が垂れ込め、九月特有のどっちつかずの暑さを閉じ込めている。
妻とは大学で出会った。学科こそ違っていたが、互いに興味をもつ分野が同じだったのか教養科目でたびたび顔を合わせていた。一年目で取らなくてはならない選択の教養科目が十あったとすると、そのうちの七つか八つは重なっていたのではないかと思う。
二年になりそれぞれの専門科目が増えてくるにつれ、授業で会わない分を学校の外で埋め合わせるようになった。告白という儀式を経たわけではなかったけど、その頃にはもう僕たちはお互いのことを特別な存在として認識していた。
僕と彼女は実に健全な交際をしていた。彼女は大学のそばで一人暮らしをしていて、僕もたびたびそこにお邪魔していたし、泊まったこともある。それでも、世間一般の大学生のカップルが二人きりになった時に起こるだろうことは、何一つ起きなかった。僕にそういう欲求が薄かったということももちろんある。ただ、それよりも。
「私ね、ショジョカイタイを目指してるの」
彼女の部屋に入れてもらえるようになって一か月が経ったころ、そんな夢を打ち明けられた。その言葉に含まれる異物を意識するようになったのも、この時からだ。
あの時も僕は今朝と同じように分からない、と言った気がする。
「私のママはね、処女で私を妊娠してたった一人で産んだ。だから、私も処女のまま産みたい」
僕はその夢を尊重し、出会いから十年を経て夫婦となった今も清い関係を維持している。
「おかえりなさい」
リビングダイニングのドアを開けると、いつになく曇った声でダイニングの椅子に座ったまま妻が言った。妻の前には丸めたティッシュがいくつか放り投げられたままになっている。妻は僕の方には目もくれず、ずずっと鼻をすすった。
ローンを組んで買ったマンションの一室にはそろそろ日が入らなくなってきていたので、黙って電灯のスイッチを押す。こちらを向いた妻のまぶたと鼻の頭にはうっすらと赤みがさしていた。緩くウェーブのかかった髪の毛が一筋、頬に貼り付いている。泣いていたの、と尋ねると妻はそれには答えず、
「今月もダメだった」
と言う。「ママみたいにできない」
大丈夫だよ、とか、夫婦二人だけでも生きていけるよ、とか、そういう言葉は妻にとっては何の意味もない。むしろ傷を抉るだけになる。処女のまま子どもを産むと言うのは、妻の悲願だからだ。それが達成されないことを、軽々しく肯定することは僕にはできなかった。
この場合、僕にできることは妻を抱きしめることくらいだ。大好きだよと言って椅子に座ったままの妻に腕を回す。妻が僕の胸にしがみついてきて声を出さずに泣いた。
僕は妻の涙や鼻水がTシャツに染みていくのを感じながら、背広を着る仕事でなくて良かったと思っていた。ここでもしスーツを着ていたら、上着を脱いで、ハンガーにかけて、という空白が生じてしまう。そういう間抜けな時間をはさむと、僕は妻を抱きしめることができないし、そうなれば妻が思いっきり泣くこともできなくなってしまうから。
その日から妻は、食事のすべてをパイナップルとりんごと梨で補うようになった。もともと主食を果物に置き換えていたが、今やそれだけで生命を維持しようとしている。自分の子宮が硬いからうまく着床しないと信じているらしい。
「処女懐胎を目指している」と言った妻に対して、頭がどうかしているのではないかと疑ってしまった僕がいたことは否定しない。しかし、妻はその点に関しては非常にクレバーで合理的だった。
「セックスしなければ処女でいられるよ」
Amazonで精液を採取するためのシリンジを購入し、そう言いながら僕に手渡した。なるほど、と納得して婚姻届を提出したのだった。
だから僕たちには指輪もプロポーズの言葉もない。あのとうに使い切った20本のシリンジの箱、それが合図だった。
果物ばかり食べる妻に対して、体を壊すのではないかという心配をしなかったわけではない。でも、妻のやりたいようにさせてあげたいという気持ちの方が強かった。それで万が一のことになっても、妻はそれを受け入れるだろう。
僕は妻が煮た鯖と酢の物を食べ、一方の妻は今夜もくし形に切ったりんごを淡々と口に運んでいる。
よく飽きもせずたんぱく質分解酵素のはたらく果物ばかり食べているな、と感心してしまうが、実際のところは飽きているのだと思う。
僕と向かい合わせにダイニングテーブルに着き、果物を食べる妻の様子を見ていても、明らかに食の進みが遅くなっている。夕食にはりんごを一つ、八等分のくし型に切って食べることにしているようなのだが、僕が夕食を終える頃になっても半分以上残っていることが増えてきた。
僕はその日、仕事帰りにスーパーに寄って果物売り場を見て回った。おそらく妻は果物以外のものを今は受け付けない。でも、たんぱく質分解酵素のはたらかないものだったとしても、果物なら食べてくれるのではないか。そんな気がして。
九月も半ばを過ぎると、売り場に並ぶ果物も秋を感じさせるものが増えてくる。夏から売られているシャインマスカットに加え、ピオーネや巨峰など、黒っぽい色のぶどう。同じように見える梨にも様々な品種があるということを知る。緑がかった柿も並んではいるが、これはまだ硬そうだ。
と。
僕は主役の座をぶどうに奪われ、売り場の隅に少しだけ並べられていたその淡い赤と黄色が斑らにグラデーションになっている果実に気がついた。桃。妻は桃が好きで、たんぱく質分解酵素を気にする前はよく食べていたということも思い出す。
今年最後。
そう思いながら、なるべく色の濃いものを選ぶ。桃の表皮には細かい毛が隙間なく生えていて、しっとりと指に吸い付いてくる。そのくせ、産毛の生えている向きとは逆に撫でるとちくりちくりとささやかな反撃をし、異物を残す。妻の言葉のようだ。
スーパーを出ると、先程まで橙色に光っていた空はすっかり墨色に変わっていた。駐車場の向こう、僕たちのマンションの後ろから赤い月が半分だけ覗いていた。満月にはやや足りない、ほんの少しだけ満たされていない巨大な月。今日は中秋の名月だと朝見たネットニュースを思い出す。
僕は家に帰るなり、妻に桃食べる、とレジ袋を差し出した。だし汁に味噌を溶いていたらしい妻は一瞬「でも、」と言い淀んだが、目を細めて「食べる」と言った。僕は手を洗い、妻の隣に立って桃の皮を剥き、食べやすい大きさに切った。甘い匂いを放つ果汁が僕の手を、腕を滑り落ちてシンクに落ちる。
「食べさせて」
妻の言いなりに桃をひと切れつまみ、口元へ運ぶ。うっすらと開いていた唇が上下に分かれ、指先の桃をさらってゆく。上唇の山がくっきりとしていて、綺麗な形だ。妻は新しく桃をつまもうとする僕の指の動きを制して、そのまま人差し指に舌を這わせた。唇よりも赤い妻の舌は、僕の人差し指から親指、手の甲をたどり、桃の果汁が滑り落ちていった腕や肘をなぞる。
どうしたの、と僕が言うが早いか、床に座りこんだ妻の指が僕の黒いチノパンツのボタンを外し、ファスナーを下ろした。僕は妻のまっすぐな、綺麗に整えられた薄い爪を見ている。化粧っ気のない顔同様、何かを塗っているわけではないのに桃の実みたいな色。その爪が、僕のパンツを少しだけ下ろしていた。
「ちょっと勃ってる」
妻が僕の性器を口に含もうとしたので、妻の顔にかかる髪の毛をそっとかきあげる。髪の毛が巻き込まれないように、という心配りの中に、顔をよく見たいという本音を隠して。
そんな下心を妻は見抜いたのか、ふと顔を上げて僕を見据える。切れ長の瞳は、心の奥底まで覗き込むような視線を投げかけてくる。下がり気味のまつ毛が目元にささやかな影を落としていて、それが余計に僕を捉えて離さない。
「ねぇ、したいな」
「……いいの、シリンジまだあるでしょ」
「今日ね、排卵なの。上手くいく気がする」
僕は妻を立ち上がらせる。妻が僕の首に腕をまわし、僕は妻の腰と背中を抱き寄せた。しよ、と妻がもう一度囁いた。ベッドへ行こうと促す。
「ママは処女じゃないって本当は分かってた」
妻が僕の腕の中で妻の始まりの物語を紡ぎ始めた。
周りに僕たちの部屋より高い建物がないこともあって、寝室のカーテンはかけないことが多い。ちょうど寝室の窓からは満月まであと一歩、の中秋の名月が見えていて、布団から出る妻の肩や僕の腕を照らしている。夜なのに闇の中に沈むのではなく、かといって明るい訳でもない。曖昧な陰影の中に青く浮かび上がる妻を、僕はとてつもなく好きだと思ったし、今この時間、この空間を鮮度を保ったまま保存する方法がないことがどうしようもなく心残りだった。
「バイト先でお酒飲まされて訳わかんなくなってる間に私を妊娠した。ママは私が生まれた時からずっとおかしかったけど、私にそのことを話した時はまともだった」
初めて聞く話だった。妻の母親は僕が妻に出会った時には既に亡くなっていて、祖父母に育てられたということは聞いていたけれど、僕もあえて深く知ろうとしなかった。聞いていいことなのか、あの頃の僕には判断ができなかった。そこからなあなあにしてしまっていた。
「だから、私がママの嘘を本当にしたかったんだ。私がママに嘘じゃないよ、処女のまま産めるよって教えてあげたかった。……でも、」
妻は僕にというよりも独り言のように言葉を紡ぎ、独白の終わりの方はやがて小さな寝息に変わった。妻の言葉は寝室の、暗闇と言うにはおぼつかない陰の中に溶けて消えた。異物は残らなかった。
翌朝目を覚ました僕は、妻が寝ているはずの右隣に誰もいないことをさしたる驚きもなく受け止めていた。枕は妻の頭の形に凹んでいて、ブルーグレーのシーツにはまだ体温が残っている。
部屋の空気が昨日よりもずっと冷たく、上半身を起こすと開けっぱなしになっていた寝室のドアからベランダに出る窓が全開になっているのが見えた。レースカーテンの裾が風に揺れ、部屋の中を出たり入ったりしている。いつの間にか空は高くなり、薄衣のような雲が一筋、刷毛で撫でたように貼り付いていた。
行ってしまったんだな、と思う。
僕は再びベッドに仰向けになり、目を閉じる。瞼の裏に空へ発つ妻の姿がありありと浮かんだ。
インスピレーションをいただいた記事はこちら。
ミルコちゃんありがとう!
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