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『キリストの言葉を聞く』

2025年1月5日

 年が明け2025年、最初の日曜日となりました。正月のTVでは今年の運勢などの占いや神社でおみくじを引くなどの話が出てきます。運を味方につけてスタートしたいというところはわからなくもないです。けれども、神の力は私たちの運勢をちょこっと上げてくれるだけの程度のものではなく、私たちは確率に縛られるような存在でもありません。また、確率という数学、考えはありますが、現実に確率などというものは存在しません。
神がともに歩む者に御旨を教え、必然を成してくださるようにと祈ります。

さて、年明けもブレずにルカによる福音書からマルタとマリアの話をさせていただきます。
ルカには明記されていませんが、この村はベタニアのことで現在、al-Eizariya(アラビア語でラザロの場所という意)という街の近くにあったと考えられます。当時、エルサレムの東、約5kmに位置したベタニアは神殿で犠牲として捧げられる羊を飼う村でもありました。エリコの方面から旅してくると必ずベタニアに入り、そこからエルサレムへの道は左右に別れ、右が神殿に続く黄金門、左に行くと糞門へと続いたと思われます。

1940年代の糞門(Wikipediaより)

Matson Photo Service, photographer
パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2245017による

ちなみにエルサレム城壁の南東に位置した糞門は不浄とされ、城壁内で谷に捨てられるゴミ、廃棄物が搬出されるために使われていました。また、羊飼いや食肉を扱うような汚れた者とされている人たちが出入りする門でもあり、その門は他の門に比べて狭く小さく作られていました。この糞門はベタニアに近く神殿で犠牲となる羊はこの門を通って場内に入っていきました。キリストが「狭い門から入れ」と言ったのはこの門のことだと考えられます。エルサレムに入る一般的なユダヤ人がこの門を通ることはありませんでした。

■ルカ10:38~42
一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

キリストはエルサレムでの活動の拠点としてベタニアのマルタ、マリアの家を使ったようです。そしてこの家にはマルタ、マリアの兄弟で後にキリストが生き返らせたラザロがいました。
この話ではキリストと弟子たちがラザロの家を最初に訪れた時の話となりますが、この時にどのくらいの人数がマルタの家で世話になったのかまったく書かれていないのでわかりませんが、非常に忙しくて手が回らない様子が書かれています。この「もてなし」はギリシャ語の原文で「διακονιαν(ディアコニアン)」が使われていて「キリストに仕える」という場合の「仕える」という言葉と同じものです。ですから、単純に客を接待するというようなものではなく、心からマルタはキリストに仕えていたのかもしれません。
一方、マリアは接待のことなど忘れてキリストの話に聞き入っていたようです。これは私の思い込みなのですがマリアは良い方を選んだとキリストは言っていますが、そこまで考えちゃいなかったと思います。

キリストに仕えていたマルタに何故、キリストがこのような言い方をしたのでしょうか。


【まとめ】

この話も教会では何度も語られる話で注目されるのはいつもマリアの方なのですが、実はこの話の中心人物はマルタではないかと私は思います。

このマルタ(婦人、女主人の意)という女性ですが着目すべきは彼女がキリストを家に迎え入れたというところです。マルタがきっかけとなってこの家がエルサレムでの活動の拠点となったのです。
ラザロが後に死からキリストによって生き返る話がヨハネによる福音書(11:1~44)に書かれていますが、マルタは兄弟ラザロの死にあたって「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」と告白しています。決して信仰が薄い人ではなく思慮深く頼りのある女性だったのではないかと私は思います。
そのマルタは迎え入れた家でキリストが人々に福音を語っていた時に勿論、自分もその話を聞きたいと思ったんじゃないかと思います。しかし、彼女は自分が聞くよりもキリストに仕えて働くことを選択したのではないでしょうか。彼女はその場でそうすべきだと判断したのではないかと思います。
ですから、キリストはそのマルタの心のうちの葛藤をも知っているということをわからせるため、マルタが気遣いの故に選ぶことができなかった選択を「マリアは良い方を選んだ」という表現で語りかけたのだと思います。

仕える姿勢というのは信仰者にとってとても大切なことです。
しかし、そこに神の御旨を知り、従うという思いに欠けていたら、それは独りよがりの仕え方でファリサイ派の人々、律法学者、当時の祭司たちと同じになってしまいます。彼らは神に仕える自分に罪があるとは微塵も思っていなかったのでエルサレムへ向かう時にベタニアを通って黄金門に向かったのです。皮肉なことに神の御旨に叶ったのは彼らが蔑んだ人々で自分を罪人だと自覚してエルサレムの城壁の最も低い場所にある糞門を通った人々でした。
まず、本当に大切なことはキリストとともにいてその声に耳を傾けることなのではないでしょうか。

■ローマ10:17
実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。

キリストに従い仕える人にとって「キリストの言葉を聞く」というのは必要不可欠です。この「キリストの言葉を聞く」は聖書の言葉を読むことに留まるものではなく、聖書の言葉を通して正しく神の御旨を知るというところにまで達する必要があると思います。

では、今、私たちはどうやってキリストの言葉を聞き、神の御旨を知ることができるのでしょうか。

■ヨハネ15:26
わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。

わたしたちが真に聖霊を受けるのはこのためです。
聖霊の働きは何かわからない言葉でベラベラ祈ることでも霊的体験を追い求めてハイな状態になることでもなく、クリスチャンとしてのレベルアップとも違います。
その本質はキリストを仕える心に招き入れて「キリストの言葉を聞く」ということなのです。

聖書には福音書後のマルタの話は出てきません。伝承によるとフランスのプロバンス地方で宣教したとい話がありますが定かではありません。ただ、ベタニアという小さな村が置かれた状況、ラザロの家で起こったことが決して偶然の出来事だとは思えず、神の御旨、御手の計画のうちにあったとしか思えません。このベタニアを通った多くの人々にマルタはキリストを証ししたのではないかと私は思います。

思い悩みを抱えておられる方も多くおられると思いますが、主がその心から恐れを取り除き、語られる主の言葉を聞かせてください。今の思い煩いがキリストの多くの人への証と喜びに変えられますように。
新しい年、キリストに従いともに歩む者がいかなるものにも縛られることなく、御旨を知り、自由に歩ませてくださるように。

祈ります。


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皆さんの働きが祝福されますように。