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『ヨナのしるし』

2025年1月26日

 20日にアメリカのトランプ大統領の就任の影響もあってか、パレスチナのイスラエルとハマスが停戦となって人質は解放に向かいガザの人々に支援が届くようになったのは何よりです。ほとんど報じられることはないのですが、パレスチナにもクリスチャンがいてイスラエルにもキリストを信じたメシアニック・ジューと呼ばれる人たちがいます。彼らはずっとキリストを通して互いの溝が埋められると信じて交流をしてきましたが、この紛争が彼らを完全に分断してしまい同じ聖書を読みながら理解し合えない関係になってしまいました。エルサレムとパレスチナの本当の平和のために祈っていきたいと思います。
この状況を救い得るのは力を持った誰かではなく、深い憐れみをもって人を救われる主、ただひとりです。

さて、今日もルカによる福音書からヨナのしるしについてお話しさせていただきます。ここもこれまでの話に続くものになります。キリストが悪霊を追い出していると次第に群衆が集まってきて、そのなかにキリストを試そうと天からのしるしを求める者が出てきます。(ルカ11:16)それに対してキリストは応えます。

■ルカ11:29~32
群衆の数がますます増えてきたので、イエスは話し始められた。「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる。南の国の女王は、裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。また、ニネベの人々は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。」

ここでキリストが「ヨナのしるし」について語るのですが、また意味がよくわからなくて面白いと言いたいところですが、今回は本当にわかりません。
マタイによる福音書では「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」(マタイ12:40)とキリストが言ったとあるのですが、ヨナは神にニネベに遣わされたのに無視した結果、魚に呑まれることになったのに…キリストが十字架にかかって死んで3日目に復活したこととリンクするってどういうこと???
「ぜんぜん違うんですけど…」と思ってしまいます。

さらには「しるし」の話から脱線して南の国の女王まで出てきます。神はソロモン王を祝福されてほかに並ぶものが無い知恵を与えられました。(列王記上3:10~12)その知恵の噂を聞いてシェバの女王は遠いエチオピアからやってきたことが記されています。(列王記上10:1~9)

どうして、ここでヨナ?なんでシェバの女王?…なのでしょうか???

皆さんはこの箇所を読んでどのように感じるでしょうか。


【まとめ】

少し話が逸れますが、ユダヤ人の人々は秋のティシュリーの月(ユダヤ歴の7月)に新年を迎え、その月の10日にヨム・キプール(大贖罪日)を迎えます。この日は日没から25時間にわたって断食が行われ飲み物さえ口にせず祈り続けます。ヨム・キプールの日は個人の悔い改めではなく、全体の悔い改めの日で互いに「グマー・ハティマ・トバ」(神が命の書にあなたのことをよく記してくださるように)と挨拶するそうです。それを80~90%の人が今も守っているというのですから驚きです。そして、この時に読まれる聖書の箇所が実はヨナ書なのです。

ヨナは北イスラエルで活躍した預言者でしたが、北イスラエルは残虐で知られたアッシリアによって滅ぼされてしまいます。ヨブの知人の多くが命を失い、ヨナが守ろうとした国はなくなってしまったのです。そんな時に神はヨナにニネベに行って、そこに住む人々に悔い改めをうながし救いをもたらすようにと語ります。ところが、ヨナは神の語りかけを無視してニネベに向かわずタルシシュ行きの船に乗ったのです。ニネベがアッシリアの首都で彼はそこで救いの働きをしたくなかったからです。タルシシュ行きの船はヨナのせいで嵐にあい、転覆しそうになったためヨナは自分を海に投げ込むように言いました。神は大きな魚にヨナを呑みこむように命じて、三日三晩魚の腹のなかで祈りました。陸に吐き出されたヨナは神が命じたところにしたがってニネベに向かったのです。ヨナはニネベの大路で40日でニネベが滅ぼされると大声で呼ばわりました。内心、ニネベが滅びるのを期待したのかもしれません。しかし、ニネベは王を含め民は皆、悔い改めるのです。それを見て神はニネベに下そうとしていた災いを思いなおされましたが、ヨナは不満を口にしました。ヨナは最初から神が憐れみ深いのを知っていたのです。

このヨナの話はよく読むと不条理に思えてきます。それにもかかわらずユダヤ人はヨナ書を「正義」と「公正」と「憐れみ」の書であると認識しているのだそうです。「憐れみ」というのはわかるのですが、ヨナの気持ちを思うと「正義」、「公正」というのは腑に落ちない気がします。でも、ユダヤ人の考えの深い部分には「神のなさることをすべて理解することなどできない」ということと、「すべてはこの地上だけで完結するものではない」というものがあるのだそうです。非常に柔軟な考え方で私には意外に感じました。
ヨナ書もヨナに感情移入してしまうと不条理に思えてしまうのですが、北イスラエルの人々はヨナを通して何度も語る神の言葉を聞き入れませんでした。でも、悪者のアッシリアはその言葉を受け入れて悔い改めたのです。
これは人を偏り見られない神の「正義」と「公正」と「憐れみ」です。

話を元に戻しますが、キリストが「ヨナのしるし」と言ったのは、彼らユダヤ人の律法に刻まれたヨム・キプールにかけて語られているところなのです。そして、ヨナ書の「正義」と「公正」と「憐れみ」が当時のユダヤ人へ悔い改めの警告として神から与えられていた「しるし」、キリストの十字架による裁きと救いを知らせるものだったのではないかと思います。実際、北イスラエルが滅ぼされてしまったようにユダヤ人はローマ帝国によって散らされエルサレムの神殿は紀元70年に崩壊しました。その後、キリストの言葉を聞いて悔い改めたのは異邦人が圧倒的に多くなり、ローマ帝国でさえキリストを信じる国へと変えられていきました。
この話の後半にシェバの女王について語られた部分があります。女王はソロモンに与えられていた知恵に驚いてイスラエルの神が「正義」と「公正」を行われる方だと証ししました。(列王記上10:9)
キリストの時代、「ヨナのしるし」は当時のユダヤ人に対しての悔い改めの警告でしたが、今はキリストの十字架の救いとそこに起こったできごとが私たちに示されている「しるし」ということなのだと思います。

今のこの混乱の時代、キリストの旗を掲げながら神の「正義」、「公正」、「憐れみ」からかけ離れてしまっているのを見ます。まるでキリスト時代のユダヤ人の人たちを見ているような気がします。私たちも立ち止まって祈り、互いに命の書に主が記されることに目を止めなければならないのではないでしょうか。

■ミカ6:8
人よ、何が善であり主が何をお前に求めておられるかはお前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛しへりくだって神と共に歩むこと、これである。

主を心より待ち望むすべての人に人知を超えて慈しみと平和がありますように祈ります。


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皆さんの働きが祝福されますように。