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『和解の安息日』

2024年8月25日

 今日もルカによる福音書で弟子たちが安息日に麦畑から穂を摘んで食べたというところからお話しさせていただきたいと思います。安息日にキリストと弟子たちが麦畑を通ったときにお腹が空いていたのか弟子たちが麦の穂を摘んで、手でもんで残った稲の実を食べたところをファリサイ派の人たちが咎めたのです。

■ルカ6:1~5
ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんで食べた。ファリサイ派のある人々が、「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」と言った。イエスはお答えになった。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか。」そして、彼らに言われた。「人の子は安息日の主である。」

この短い話は本当に面白いところだなと思います。
イスラエルの律法では畑の産物の収穫の際にすべての麦を収穫してはならず、道沿いの麦は収穫せずに残しておくよう定められていました。(レビ19:9~10)それは貧しい人や旅の者が取って食べることができるように配慮されていたからです。ルツの落穂ひろいもこうした状況で生活を助けられたのです。ですから、弟子たちが畑から麦をとって食べたことについて責められる理由はないのです。
ファリサイ派の人たちは安息日のユダヤ人会堂での礼拝後にキリストと弟子たちを付け狙って、あら捜しでもしていたのでしょうか。弟子たちが麦の穂を手でもんで実を取り出したところを指摘して、安息日に脱穀の仕事をしたとして言いがかりをつけたのです。
それに対してキリストは「ダビデだって空腹のときに供えのパンを食べたのだ」と、いつものごとく噛み合ってないような応答をします。ファリサイ派の人たちにすれば、「いやいや、そこじゃねぇ~よ」と突っ込みたくなったのではないかと思いますが、キリストは彼らの心の突っ込みを無視して意味不明のことを言っています。

ダビデが供えのパンを食べた話はサムエル記(Ⅰサムエル21:1~15)に出てきます。ダビデはサウル王に命を狙われて何も持たずにひとり逃げましたが祭司アヒメレクのもとで従者たちと落ち合います。ダビデと従者たちは空腹だったためアヒメレクに食べ物を請うのですが通常のパンがなかったのです。そこでアヒメレクは彼らが身を清めていることを確認した上で供えのパンをダビデたちに与えたと記されています。
福音書の話だけだと勝手にとって食べたようなニュアンスですがそうではありませんでした。
でも、そもそも祭司のほかに食べてはならないとされていた供えのパン(出エジプト29:33)、ダビデは食べても良かったのでしょうか?それから、キリストはなぜ、この話をしたのでしょうか?

さらには最後に「人の子は安息日の主である。」で締められているのですが、ちょっと強引過ぎるような気がします。
途中、ダビデの話でファリサイ派も人々を無視して安息日の話を逸らしたかと思うと…最後は安息日の話にもどってくる???

すごく、訳がわからなくて面白い話だなと思ってしまうのですが、皆さんいかがでしょうか。


【まとめ】


供えのパンについて少しお話しさせていただきます。

■レビ24:5~9
あなたは上等の小麦粉を用意し、それぞれ十分の二エファの分量の輪形のパンを十二個焼く。それを一列に六個ずつ二列に並べ、純金の机の上に置いて主の御前に供える。各列に純粋の香料を添える。それはパンのしるしとして燃やして主にささげる。アロンはイスラエルの人々による供え物として、安息日ごとに主の御前に絶えることなく供える。これは永遠の契約である。このパンはアロンとその子らのものであり、彼らはそれを聖域で食べねばならない。それは神聖なものだからである。燃やして主にささげる物のうちで、これは彼のものである。これは不変の定めである。

供えのパンは酵母(イースト菌)を入れずに輪の形に焼かれ、イスラエルの民の数に従って12個用意されました。それを安息日(土曜日)ごとに神殿の備えのパン机で神に献げます。しかし、神が受けるのは一緒に献げられる純粋の香料(乳香)の立ち上る煙でパン自体は残ります。そのため、残ったパンは安息日ごとに新しいものに取り換えられ、残ったパンをアロンの子孫の祭司のみが神殿の聖所で食べることを許されていたのです。
出エジプト記にはアロンの子孫が代々、祭司の職を務めるにあたって任職と聖別についての儀式が記されています。(出エジプト29:1~46)このところで注目すべきは「和解の献げ物」ではないかと思います。
燔祭については様々な定めがあり、例えば、焼き尽くす献げ物は犠牲となる動物をすべて燃やします。ところが和解の献げ物は犠牲となる動物を部位ごとに別け、脂肪などは神のものとして燃やされ、胸の肉と右後ろ肢は祭司のもの、残りの肉は献げた者のものとなり聖所で食べることになっていました。
皆さん、考えてみてください。罪の性質をもった人にとって危険極まりない聖所で会食するなんて、恐ろしくて落ち着かず、食べ物が喉を通らないのではないかと思いませんか。しかし、この祭司の任命において「和解の献げ物」においての会食は非常に重要です。これは神と人との関係が正しくあることを示しているからです。本当に親しい関係であれば供に食事をするのが当然なのではないでしょうか。
つまり、この聖所での会食は完全に罪の問題が取り除かれているということなのです。
入れ替えられた供えのパンは安息日に食べきることになっており、残ったものは次の日まで置くことができず燃やし尽くすことになっていました。ですから、ダビデが供え物のパンを食べたのは入れ替えたパンが残っていた安息日だったということになります。
ダビデたちがその場でパンを食べたのはサウロが切ってしまった神との正しい関係を修復する和解だったのではないかと考えます。神はそれを受け入れられたのではないでしょうか。

キリストがこの話をファリサイ派の人々にしたのは安息日が本来、何のためにあるのかということを教えるためだったのではないかと思います。ファリサイ派、サドカイ派、律法学者たちは安息日に厳しいルールをギチギチに勝手に盛り込んでしまって、楽しむことのできない日、神との和解を忘れてしまっていたのです。
そうではなく、安息日は神と人とがともに正しい関係ののなかで楽しむ日であるべきです。祭司には安息日ごとに神と和解して、ともに食事をする権利が与えられていました。それなのにサウル王が神に従わなかったように当時のユダヤ人も祭司の務めを忘れて神との正しい関係を壊してしまっていました。
そこで神はキリストを信じる者に祭司として務めとを与えられたのです。それだけでなく、私たちには日曜日に神との和解を喜ぶ権利が与えられているのです。

■1コリント5:18
これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。

私たちは日曜日、本当に礼拝することを楽しめているでしょうか。しなければならないことは多いかもしれませんが、まず、安息日の主と正しい関係を思い返して供に過ごすということを考えてみてはいかがでしょうか。

今日の安息日、あなたに完全な和解による喜びと平安がありますように。