『聞く耳のあるものは聞け』
2024年10月27日
先週、トルコの旅を終えて帰ってきました。その話は旅の話の方で後ほどさせていただきます。
もうひとつ、その旅のさなかに私の恩師である牧師が天に召されたことを聞きました。私は若い頃にどうしようもない人間でしたが、辛抱強い恩師の助けによって私の今があります。もし、私に何かひとつでも神に褒められるようなことがあるとしたら、恩師である牧師のおかげで私には何ら褒められるようなところはありません。主が恩師の生涯の忠実な働きを褒め、その家族を慰められますように。
さて、2週間ぶりとなりますが今日もルカによる福音書から種まきの例えの話をさせていただきます。
教会学校で育ったクリスチャンにとっては耳にタコができるくらい何度も聞いた話だと思います。子ども時代、本当に不真面目だった私は「またこの話か」とよく思ってロクに話を聞かず、邪魔ばかりで先生を困らせていました。そのタコができる話を今回、取り上げてみたいと思います。
■ルカ8:4~15
大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話しになった。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。
弟子たちは、このたとえはどんな意味かと尋ねた。イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである。」「このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」
キリストが自ら例えの解説を弟子たちにされているので、もはや説明のいらない部分かもしれません。
ここでいう種まきは大麦、もしくは小麦(恐らくは小麦の方)の種まきを言っているのだと思います。イスラエルの小麦は日本の品種と違い、秋に種を蒔き初夏前に収穫する品種となります。ですから、この話には秋の収穫祭である仮庵の祭の後、新年を迎えて大地に恵みの雨が注がれる時期に種が蒔かれるという背景があるのです。ガリラヤ地方は大麦、小麦が豊かに実る地域でしたから集まった群衆もイメージしやすい例えだったのではないかと思います。
この例え話では御言葉が種として人々に蒔かれているということをキリスト自ら解き明かししています。確かに学ぶことの多い教訓なのですが、疑問なのはここでキリストが言う「神の国の秘密を悟る」というほどの秘密を話のなかで感じることができないことです。考えすぎなのかもしれませんが、この話にはもう少し何かあるのではないかと思ってしまうのです。
皆さんはこの話、どう考えるでしょうか?
【まとめ】
この箇所のキリストが語りかけるときによく使われる「聞く耳のある者は聞きなさい」というフレーズですが、これは以前にお話しさせていただいたシャマー・イスラエルと関連があるのではないかと思います。「שְׁמַע יִשְׂרָאֵל(シャマー・イスラエル)」は律法の巻物を納める箱の表面に記されたユダヤ人が最も大切としていた言葉です。シャマー・イスラエルは「イスラエルよ、聴け」という意味で、申命記6:4などに見られる言葉でユダヤ人は神に聞く耳をもって祈ることが最も重要なことだと捉えていたのです。
申命記ではモーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民が神の山ホレブ(シナイ山)に着いて神の声を聞くところが記されています。神の声を直接聞かされたイスラエルの部族長と長老たちは非常な恐れのあまり、モーセに神の言葉を取り次いで自分たちが直接神の言葉を聞くことのないようにと頼みます。(申命記5:23~33)こうして彼らは神の言葉の代弁者に聴き従うことを誓ったのです。
そしてイスラエルの民に「聞け」と命じて、約束のカナンの地に入った時に「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と語りました。キリストも最も大切な戒めとしてこれを教えています。(マタイ22:37)
何が言いたいかというと、この部分はそれだけ重要なことが語られていて、神であるけども人の形をとられたキリストが神の言葉を取り次いでいるということです。
キリストの時代、イスラエルがカナンの地に入って1200~1450年程経っていましたが、カナンの地は型であって神の約束された本当の地というのは「神の御国」です。キリストによってその神の御国の門が開かれようとしていたのです。
このところで語られた「善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たち」は実を結び、多くの収穫をもたらします。小麦の収穫期は七週の祭の時期で収穫された新穀の小麦でパンをつくって主に捧げるのです。このパンだけは唯一、パン種(イースト菌)を入れたものが神に捧げられることが許されていたのです。本来は罪を示すパン種が神に受け入れられるということなどあり得ないのですが七週の祭だけ例外でした。この七週の祭のなかでペンテコステの聖霊降臨が起こったのです。それは罪ある者がキリストの血によって罪のないものとして神に受け入れられたことを示していました。キリストが十字架で私たちの罪を一身に担ったからです。
そこから、罪のないものとみなされたキリストを信じる者に聖霊が降り、神は人とともに歩まれたのです。ですから、その収穫はすさまじく世界宣教に繋がっていきました。
■エゼキエル36:8:11
しかし、お前たちイスラエルの山々よ、お前たちは枝を出し、わが民イスラエルのために実を結ぶ。彼らが戻って来るのは間近である。わたしはお前たちのために、お前たちのもとへと向かう。お前たちは耕され、種を蒔かれる。わたしはお前たちの上に、イスラエル全家の人口をことごとく増やす。町々には人が住むようになり、廃虚は建て直される。わたしはお前たちの上に人と家畜を増やす。彼らは子を産んで増える。わたしはお前たちを昔のように人の住むところとし、初めのときよりも更に栄えさせる。そのとき、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。
私たちが主の御言葉を聞いてキリストに従うとき、新穀の収穫として自分自身を神の前に携えていくことが「神の国の秘密」なのではないかと私は思います。その時に新穀の私たちのうちに聖霊なる神がともに住まわれ、多くの人の救いをその手に神が渡されるのだと思います。
聞く耳のあるものは聞け。