学校課題レポート投稿①
概要
このレポートの課題作品は『黒澤明監督作品』
とりあえず黒澤明監督作品であればなんでもいいって感じです。
私はその中から『羅生門』を見ました。本文では、映像的な話を一切していないのでここでちょっとだけ書こうかな。
なんか、めっちゃキレイなんですよ、全てが。全てがキレイ。映像美って言っていいんじゃないかな?そして構図やカメラの動きに古さを感じないんですよ。映像はとっても見やすい感じでした。私は好き。
こんなところかな?授業の担当の先生は「七人の侍なんかはめっちゃ長いけどわかりやすいからおすすめだよ」なんておっしゃっていましたが、さすがに私には3時間の作品を見る体力は無く…まぁ絶対見るんですけどね。
それでは本文です。どうぞ。
『ここ数年の悩み』
羅生門の最後、旅法師が杣売りの手を払い除けたシーン。今、私はあの場面の旅法師そのものなのではないかと思った。高校進学後、私はだんだん、他人が怖くなってしまった。
周りの人間が何を思い何を考えて生きているのか。周りの人間から、私は一体、どんな認識を受けているのだろうか。それは好意的だろうか、私に好意が向くことなんてあるのだろうか。好きという言葉に、言葉以上の裏はないのか。友達とは何なのか。私は誰かに理解されているのだろうか。誰にも理解されぬまま死ぬのではないか。私を信じてくれる人間は居ないのではないか。私は誰かを信じられるのか。まず私は、誰かに覚えてもらえているのか?
私は「いいや、誰も覚えているはずがない。私にそれほどの価値はない。」と、私に言っていた。ひとから好かれていると思って惨めな思いをするよりはマシだと考えていた、からなのだろうか。ひとからプラスな印象を持たれている自信は無かった。当時の私は、まさかここまで大きな悩みというか、世界のすべてを疑うほどの大きな気持ちを抱えるとは思いもしなかった。
とても褒められたものではないと、きっとすべて間違っていると、ここから更に自己否定に走ってしまったのがいけなかった。私は、私自身を、信じられなくなってしまった。私はだんだん、何も信じられなくなってしまった私の心の狭さが、私自身が怖くなった。
こうして思い詰めていた頃に、ちょうど黒澤明監督作品についての課題が出てきた。だが、とても消化する気にはなれなかった。
Twitterで知り合った作家たちと、作品についての話をする機会があった。何を原動力に作品制作をしているのか、といった具合の話題だ。私はそこで、この悩みをぶつけた。そして、こうした悩みを抱えている人間が安心できる瞬間は、共感と、解決への導を受け取ったときだと考えていて、私はそのために作品制作をしている、と言った。意外だったのは、この思いや考えが、受け入れてもらえたことだった。つい直前に書いたように、私は久しぶりの安心感を手に入れた。そこで、自分を受け入れる余裕が無かったことを、やっと知れたのだ。
書いていて思ったが、私は未だに、自分を信じられていないようだ。自分のことなのに、所々で言いきれていない文章がある。いつのまにこんなに根深いものになってしまったのだろうか。自分の身に何が起きているのか分かっていながら、尚も自分を信じ切れていないなんて。煩わしくて仕方がない。いつまでこれは付きまとってくるのだろうか。
これらが爆発した元凶ともいえる、書き途中の脚本がある。書き始めたときは何ともなかったのに、気づけばこんな有様になっていた。無意識的に、私は私へSOSを送っていたのか、それとも書いているうちに登場人物に感情移入しすぎたのか。どちらにせよ、きっとこの脚本は書き上げるべきなのだろう。散々私の精神を揺るがし振り回した挙句に根深く残り続けていたネガティブを顕在化させたことは最早罪だ。意地でも完成させてやる。
話が随分それたが、要は私は、ここから先、誰かを信用できなければ、きっと大して私自身も信用できないまま生きていくのだろうという話だ。旅法師がそうであったように、私もいつか、私を救ってくれるほどの良心に出会いたいものだ。
あとがき
優秀レポートとして紹介されました。