精神の貴族性とムーブメントについて


 セネカは『賢者の恒心について』のなかでこう述べる。

「傷つけられえないものとは、打たれないもののことではなく、害されないもののことである。」(1)

 打たれることと害されることの間に存在するのは人間の理性による徳、あるいは力であり、それを持つ者こそ賢者といわれる。賢者にとっては、相手が不正を行ったとしても、即座に自分が不正を受けたことにはなるまい。相手の能動的な行為が自らの受動的な作用に直結するのが、触覚という感官に特有のできごとであるならば、愚者は賢者に「触れられない」と言うこともまた可能だろう。裏を返せば、愚者は相手に触れずとも相手を打つことはできるのだ。そのとき愚者も、賢者から触れられることはない。賢者は自らの手を、その他の身体の部分を誰かの垢で汚すことはない。それゆえ賢者はつねに高貴である。しかし、その消息がたしかめられるのは、他ならぬ愚者が彼に触れようと願うからではないだろうか。実際セネカは、怒りという接触的な反応についてこう語る。

「何が賢者から怒りを取り除くのか。誤てる者の大群である。公の悪徳に怒ることが、どれほど不当であり、同時に危険であるか、彼はよく弁えている。」(2)

セネカの思考において、賢者という観念は自足していない。愚者の存在とその欲望をみとめることが賢者には不可欠だからだ。ここで非常に重要なのは、賢者の責務は愚者への共感ではないということである。

 賢者は見るが感じない。そして、見る限りにおいて他者の欲望を必要とする。精神の安寧のためにセネカが提示したこの主題を、ポルトガルの詩人ペソアはユーモラスに変奏しているように、私には思われる。

自分自身の目にたいして失墜しないためには、野心も情熱も欲望も希望も衝動も動揺も持たないように心がけさえすればよい。そのような境地にいたるためには、私たちがつねに自分を前にしていること、すっかり気を抜けるほど孤独なことはけっしてないことを想い出すのだ。(3)

ここにはセネカとの強い類似が見て取れる。情念を抱かないためには他者が必要だが、彼らはあくまで私が共感しない限りでの他者なのである。他者への冷徹な無関心性によって自らの目を守り抜き、他者の存在への理解によって自らの徳を守り抜く、それこそが貴族の姿なのだとペソアは説く。

「貴族とは、つねに誰かといることを忘れない人間だ。だからこそ、儀礼や典礼が貴族の占有物なのだ。貴族性を内面化しよう。」(4)

彼は他者に向けていた冷徹なまなざしを、自らへと向け変えることになる。自らの目で自らの情念を見きわめる演劇的空間が、私の中に立ち上がる。私は私と距離を取り、私から汚されることを拒む。ときに舞台役者の私は胸打つ演技で観客の私を圧倒するが、私はただそれを見つめる。そして見終わった後は、ホールを掃除する。夾雑物のない透き通った部屋で、また動く私を見たいと思う。純粋な見ることの快楽を、せめて自らのために残しておくのだ。

 「自分自身の機嫌を取る」——そんな言葉は、あたかも排泄物や着替えの処理をともなうケアサービスのように響いてくる。人を疲れはてさせる(exhausting)配慮を、何もいつも自らに課さなくても良いのではないか。他人の機嫌をとることが大変なら、自分のことはなおさらであると私は思う。ペソアの論理の逆を辿って、ただありようを見つめるということ、それがいつしか感じないでいられるという消極的な能力に育ってゆくのならばと安易に期待するのは、ロマンティックに過ぎるだろうか。

 アメリカの心理学者が提唱したといわれるHighly Sensitive Personというカテゴリーの人びとへ向けた多くの処方箋に書かれているのは、要するに、感じることと行動することとのあいだに私の意思を介在させなさいという話である。それで解決するならば幸福であって、とくに述べるべきことはない。しかし実際のところ、自らに立ち戻ったところで彼らは複数の自分の衝突や愛撫によって目を曇らされてしまうこともままあるのではないか。たとえ街路から伝染病が消えたとしても、自らの内部では接触過剰による蔓延が維持されたままかもしれない。個人的にはそのようなエネルギーのるつぼを非常に愛おしく思いながらも、一方でその騒音を鎮めたい気持ちに駆られるときが、やはりある。「感じることは問題でないのです、その先から話を進めましょう」という理性的な慰めが、問題を覆い隠していないかと、不安になる。いささか神経を逆撫でするように聞こえるかもしれないが、こう言いたいのだ——べつに感じないことを諦めなくてもよいのではないか、と。

 感じているほうが感じていないほうより正しい。そのような見解が、たしかに人々の良識に棲みついている。特に、社会を変革しようとする運動にとって、この思考の枠組みは強力な基礎になる。社会から排除されている者たちの苦しみを感じない人々はすでにして加害者だ。彼らは、気づかなければならない。彼らが無自覚にもっている既得権益を手放すことがその証となるだろう……。このような考え方を、私はなくていいものだとはけっして思わない。たとえ旧態的であったとしても、無自覚の罪の意識に訴えかける方法はまず実践的であるということが、当座浮かぶ一つの理由であり、そしてそのほかにも私が考えるよりいっそう核心的な理由を述べられる・述べてきた人々がいるであろう。ただ、ここで私が抱いているのは、少なくともその方法だけでは不十分なのではないかという疑念なのである。

 先日、1968年を中心とした世界の社会運動を特集した番組の再放送を観たとき小熊英二が語っていたが、彼によればあの種の政治運動はもって三ヶ月程度しか続かない。それは人間の本性的にそうなのだということだった。新たな体制や生き方を希求して多くの民衆が一挙に集まる。そのパワーは陶酔をもよおし、エロスに満ちた大変魅力的なものとなる。しかしながら、それだけではどうしても持続性が欠け落ちてしまわないか(こういった危惧は、先日の東浩紀・宮台真司・西田亮介の鼎談でも取り扱われていた)。というのは持続性をもたらすのは、あくまで内面化された儀礼だからだ。情念的な接触のムーブメントから出発するかどうかは問題でなく、どちらにしろ生活形式に内在するまでの儀礼を作り上げることが重要であるならば、持続性のために「感じないことを選ぶ」貴族的な無関心もまた運動のキーになりうるのではないかと私は思う。

 カントの美学において、無関心性がむしろ美を見出すための積極的な契機になるように、社会においても冷淡な貴族性が変革を生み出すことはありえないのだろうか。ペソアに強い影響を受け、自分の内部を見つめながらもアンガージュマンという主題をきわめて積極的に扱ってきたタブッキの文学を通して、そんな問いを少しでも前進させられればと考えている。



(1)『怒りについて』(セネカ著 兼利琢也訳、岩波文庫、2008、p48)

(2)同上、p144

(3)『不穏の書、断章』(フェルナンド・ペソア著 澤田直訳、平凡社、2013、p248)

(4)同上、p248

#エッセイ #セネカ #ペソア #政治運動

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?