情に溺れず、理に病まず、短歌でアウフヘーベンしてく、生きてく

 進化への遷移を拒みシーケンス海路をシーラカンスは泳ぐ


 十年ほど前から短歌を作っている。

 より良い短歌を作るための勉強として現代短歌と呼ばれている歌を読み進めるうちに、私のセンスはどうやら流行に千年ほど遅れているらしいと気づいた。

 主に、正岡子規のせいだ。正岡子規が古今集をディスり倒したせいで――。

 そんな絶望の中、私は自分という読者のためだけに短歌を作り続けている。


SStaRなど星の数ほどいる街でいま目の前の推しだけ欲しい


 その一心で。

 自分は短歌に何を求めているのか。うまく説明することができないまま三十一の言葉を何百枚も降り積もらせつつ、短歌の本、和歌の本に限らず、言語学やら、認知科学やら、文学理論、情報理論、楽典、生物学……。手を広げ読み漁るうちに出会ったのが、『レトリック感覚』。古い本だ。古今和歌集ほどではないけれど。

 西洋においてレトリックというものが軽んじられるようになり始めたのは、日本でいう明治時代ごろからのことだ。と、著者はまず、レトリック研究史を大まかに語り出す。

 明治時代とは、日本が「西洋」というものに出会った時期だ。そして「科学」という視点に。そういった社会にあって、正岡子規もレトリックにまみれた「和歌」というものを軽んじたくなったのもしかたがない。

 科学というものは、客観的な世界の存在を前提とした営みだ。すべての事象を外から見て、そのこしかたとゆくすえを記述する。キリスト教的神をキリスト教的神の視点で分解してできているのが科学だ。

 しかしそこから約百五十年、私たちは西洋(神)の限界も、科学(客観性)の限界も知ってしまった。科学によって成り立つ世界とは、結局は完全客観でいられる神のための世界であり、そこに人の居場所はない。

 人の生きる世界とは、主観の世界だから。


桜花散りぬる風のなごりには水なき空に波ぞ立ちける   紀貫之


 桜の木の下でねころんで空を見上げれば、空をバックに花びらが舞う。大海原のように広がる青空の、波のように。

 科学的に見れば、空は海ではないし桜の花びらは波でも水しぶきでもない。けれど、私たちはこの気持ちがわかる。桜の木の下にはしたなく寝転んだことすらなくったって。淡いピンクと鮮やかな水色の空との対比が、美しいとすら思える。この世界は、客観性をもちいては捉えることのできない世界だ。

 なぜなら、人はそれぞれ生まれたときから各々様々な経験をし、それを通して世界の存在を感じているからだ。桜を見たり、空を見たり、海を見たり。見るだけでなく、潮の香り、風の感触、波の音、積み上げてきた経験や知識が、「桜」、「風」、「波」という言葉の中にはパッケージングされている。

 だから「言葉」とはみんなにとって同じものではない。同じ言葉でも、背後にある経験や知識が異なれば通じない。レトリックを用いることを通じて「言葉というもの」そのものの性質を理解把握しておかなければ、人々は容易く断絶してしまう。思いやりこそが絶望の理由にもなりうる。世界は豊饒で矛盾していて残酷で美しい。人がいて、言葉があるせいで。

 私は十代のころ病んでいた。不登校だったし、やりたいこともなく、勉強していい大学に行ったところで、誰にも必要とされてない仕事を自分の生活のためだけに社会に迷惑がられながらやる未来しか想像できなかった。

 親やまわりの大人が、私を心配し、助けようとしている気持ちは痛いほど理解できた。けれど、残念ながら助けにはならなかった。彼らの語る「未来」や「明日」という言葉にはど純粋無垢な素晴らしさしかパッケージングされていなかったから。私にとって「未来」とは、あくせく働きながら必死に払っても貰えないだろう年金、だったし、「明日」とは、休み時間ごとにウザ絡みしてくる男子に耐えながらすごす学校、だった。

 当時の自分にこの感覚を言語化する力はなかったし、どうにかこうにかこうして言葉にしている今も、この感覚が誰かに理解される感じはしない。一度パッケージ化された言葉の器と中身を分離して捉え直す、という行為は、慣れていてさえ難しいし、そんな作業を必要だと思っていない人間が大半だから。


シナプスのつながりかわりさっきまで見えてたはずの星座はどこだ


 私は結局、短歌を通じて言葉が含みとる意味を絶えず考え、ありとあらゆる世界を、瞬間を、あらゆる角度で標本化したいのだろう。「未来」は本当はネガティブな概念なのではないか。肉体のある兵士が武器をとることだけが「戦争」か。

 なにかを語る前に、まず言葉について。


 短歌には57577という性質から、音にまつわるレトリックもあるし、その短さから文字を用いたレトリックもある。57577の枠に収めるために言葉の並びを入れ替えたり差し替えたりするうちに、視点や立場が入れ替わり、同じ光景でも違った意味やイメージの遷移先が見つかる。言葉というものの性質を掘り下げるには便利だ。


ああすべきこうすべき

「べき」冪乗に積もる

「べき」ベキベキにへし折れ


 短歌だって、直立しなくたって、一行でなくたって、横書きだったっていいじゃないか。

 回路とシーラカンス。交わりそうにもなかった世界が、言葉を介して短歌の上では交わっていく。

 あのころの私のように、「未来」や「明日」という言葉に絶望の匂いを感じている人たちが、今はたくさんいる。あのころよりも厳しい社会情勢のなかで。

 でも言っておきたい。言葉と経験の結びつき方が変わるだけで、世界は違って見えるのだ。違う見方ができれば、打開策が見つかることもあるのだ。


これ全部ボツ 袈裟斬りにバツ書いてペンをキャップの鞘に収める


 言葉というかけらを万華鏡みたいに、いや無量大数華鏡みたいにくるくると回して、見えてくる新たな世界をああでもないこうでもないと詠みたい。世界の見え方が変わる瞬間を、体験してもらえるような短歌を。その術を、この本に教えてもらって。

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