いろとりどりの真歌論(まかろん) #9 三島由紀夫

益荒男がたばさむ太刀の鞘鳴りに幾とせ耐へて今日の初霜

○●○●○ ●○●○●○● ○●○●○ ●○●○●○● ●○●○●○●

 「益荒男(マスラオ)」とは荒々しく立派な男、あるいは男らしさを意味する。和歌の世界では万葉集のような素朴さ野性を感じさせる作風を益荒男振(マスラオブリ)と呼ぶ。万葉集の歌は本当に益荒男振と言っていいか、素朴野性と言っていいか、という問題もあるがそれはおいといて。

 このご時世、男らしさ女らしさなんてものが自明にあると言い切るのは問題だ。そもそも、現代社会は荒々しい力など求めていない。力そのものより、力を出すべき場面やタイミングや大きさの繊細なコントロールが要求される。人は足が速いといっても、電車を追い抜けるほどにはなれない。

 益荒男振、というのは結局のところ「ふり」である。必要なときはその「ふり」をして、不要なときは鞘に収めておくもの。「らしさ」も同じく。「そのもの」ではないのだ。益荒男が不要な世にあり、それに気づかず益荒男になりたがった男の内面を繊細に描く、手弱女振(タオヤメブリ)の悲しい辞世。

 強さのありかたも、時代によって異なる。もしも、現代社会にまだ通用する益荒男振なんてものがあるとするならば、社会の荒波から愛するものを守るためなら他人に躊躇なくへこへこ愛想よくすることができる、という、客観的に見ればなさけない「ふり」かもしれないのに。

●○●○● ○●○●○●○ ●○●○● ○●○●○●○ ○●○●○●○

ここから先は

0字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?