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伝える気ないでしょ。

世の中には、何かを説明されると「マウントを取られた」と思って怒りだす人がいるらしい。
どうしてそういう思考になるのかというメカニズムは分からないけれど、実際、弱みを見せるといつまでもそれを執拗に攻撃されるかもしれない危険性というのは分からなくもない。学歴マウントやら知識マウントが横行する世の中で「頭が悪い」と思われるのも一種の弱みになるとしたら、やたらと難しい言葉を使ったり、回りくどい言い回しをするのも、そういう“弱み”と見せまいとする一つの防御手段にも思える。

昔のインテリなんかも、今聞くと、なかなかよく分からない言葉で論争したりしていたものだ。
東大の講堂で、作家の三島由紀夫と東大全共闘が“革命”について「事物がどうだ」「空間がどうだ」と論争した時、一人の東大生が割って入った時の言葉がこんな感じだ。

「一般的に、無規定に関係ということを捨象して論を立てたところで、観念界のお遊びなんだよ。つまり、人間が、他者がいるというのは事実なんだ。それについて自分がどう論を立てるかってのは君の勝手だよ。(中略)現実的な実在的・社会的諸関係というものがまず先行する。それに対して、意識においてどのような展開をするかということが問題になるわけじゃないか。そこでお前は、他人の空間的併存ということを捨象して問題を立てているだけに過ぎない」

さっぱり意味が分からない。
討論に割って入った人物の言葉ではあるけれど、そもそもなんでこんな討論をしていたのかも、今の感覚では全然理解できない。
60年代後半の学生運動の時代は、こんな言い争いをあちこちの大学生がやんややんやと真剣にやっていた時代だったという。

インターネットが普及して情報が民主化した今なら分かるだろうけれど、市井に生きる人々にとって、大学で学ぶような難しい言葉を振りかざして「空間的認識」だの「事物と関係性」だのの討論に延々時間を使うことは、なんの意味も生み出さない。
学生運動が本当に革命を目指していたのかは定かではないけれど、もしそうだったとしたら、市民の方を何も見ていない時点でてんで的外れの運動だったように思える。

しかし、もしかしたら、そこにいた学生たちも本気でそんな“知識”を誰かに伝えようと思っていたわけではないのかもしれない。その時代にそこにいたために、そういう知識を振りかざしてポジションを取らなければ自分自身の行動に意味が見出せなかったのかもしれない。
それならば、なんら社会に意味をもたらさない、身内だけで分かり合える言葉遊びを延々語っていたのも、分からなくはない。

現代でも、「難しいこと・最新のトレンドをたくさん知っている」「だから私は偉い」というロジックの人は多い。
そうした態度で、誰かに言うことをきかせたり、都合よく誰かをコントロールしようとする人もいただろう。
しかし、これだけ情報が溢れた昨今では「知っているから偉い」という態度は、むしろ浅い底や見え透いた裏側が見えて反発されることも多くなってきた。

これからの僕たちに求められるのは、「自分がどれだけ正しいか」「自分がどれだけ賢いか」を競うことではない。
大切なのは、伝えたいことがあった時に相手にきちんと理解してもらえるよう誠心誠意努めることだ。
そのようにして築かれる信頼無くして、誰かと何かを成し遂げるなんて到底不可能なのだから。

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