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言葉はあくまで手段や方便、それ以上のものじゃない

【最終更新:2021.8.12】

宗教やスピリチュアル、自己啓発やビジネスの分野では、よく「言葉の持つ力と重要性」を説いている。

例えば

●「言葉には言霊が宿る」
●「本気で言葉にし続けたら必ず叶う」
●「きれいな言葉を使えば運が良くなり、汚い言葉を使えば運が悪くなる」

といったような話である。
このnoteをお読みのあなたも、一度は耳にしたことがある事柄だと思う。

そうした言説を全否定するつもりはない。

しかしながら今の私は少し違う考えを持っているので、シェアすべき知恵としてここに書き記しておきたい。
特に、人から言われたことを気にしがちな方、自己啓発書を読んではモヤッとした気分になる方には、大いに参考になる内容だと思う。


「コトバ」が絶対だったザイン

ザインを知る前の若き日の私は、人から言われたことをいちいち気にして、人の言葉に一喜一憂する人間であった。
またいい加減な人間が嫌いで、いい加減な言葉を弄する人間が世を動かしたり、真っ当な人々を陥れ生きづらくさせたりしている、と思っていた。

まあ、つまるところクソ真面目で融通が利かず、幼く未熟であったのだが…
そんな当時の私にとって、ザインはとても素晴らしい場所に映った。

ザインでは、言葉――コトバ――を絶対視していたからである。(※1)(※2)

ザインにおいて言葉とは「侍が命を懸けて主君に誓う」という種類のものであり、そこに嘘があることは許されなかった。
いわゆる「武士に二言はない」というやつである。

思ったこと、言ったこと、行うことが一致していることが良しとされていて、小島露観は軍士達にそうあることを求めた。

本気の言葉であればそこに力が宿るから、自分は勿論他人も感化できるし世の中も変えられる、侍のような実直で正直で高潔さ溢れる人間は世人から見て魅力に溢れているから人々を感化できる――というのが露観の理屈であった。


しかし残念なことに、実際の現実は全くそうではなかった。

ザインにおいては「小島露観こそが絶対であり、その指示に疑いを入れず従え」という掟があった。
(軍士勅令・第一條より)

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武士が主君に身命を懸けて忠誠を誓うのと同じように、露観や上官に従うことを要求された。
まさしく当時の私達は「総帥の兵」(※3)たらんことを求められ、私達もそうあろうとしたのである。

しかしザインの軍士として年を重ねるうちに、私は「家族に反対され家を追い出される羽目になり、そこまで自分を投げ打って活動するのは辛い」「上官に色々理不尽で的外れな批判を受けながら従うのは辛い」という本心を抑え込みながら活動するようになっていた。

ザインで軍士として活動すれば侍のような立派な人間になれると信じていたけれど、そこで要求されるのは結局「自分に嘘をつき続ける」ことだった。
侍はどこへ行った、おい。

ともかく、そんな辛さに耐えかねた末、理不尽な一般人勧誘指令を受けたことが決め手になって私はザインを辞めた(追放処分になった)のだった。



ザインを辞めてもなお迷う

しかしザインを辞めても、私は長いこと人の言葉に一喜一憂していた。
ザインを辞めたところで自分の内面がガラリと変わり、なりたかった自分になれるわけではない。
人の言葉を気にしない自分になるためにはどうしたらいいか、心のどこかでずっと答えを求め続けていた。

ビジネス書や自己啓発書、スピリチュアルといったものに答えを見出そうとした。
数々の本を読む度に知識がつき、良く生きようとする人々の言葉に奮い立ちもした。


だが同時に、そんな言葉に縛られるような感覚が常にあった。
私はそうした教えと自分自身を照らし合わせては至らぬ自分を責め、「なんて自分はダメなんだろう」と思うようになっていった。

精神至上主義の陥穽、自己啓発の陥穽に嵌ってしまったのである。
(いや、生まれてこのかた、ずっとそんな泥沼の中でもがいていたのかもしれない)

うつになってそこから回復したことを期に、ようやくそんな泥沼から這い出ることができた。



「言葉の限界」を知る

うつから回復していく過程で私は「至らない自分」を許せるようになっていった。

もっとも、努力して「自分を許そう」としたわけではない。
至らないダメな自分を責めるよりも、そんな自分のまま生きて生きて生き抜いてやる!! というバイタリティが湧き上がるようになったのである。

至らない自分が許せるようになると、同じように至らない他人もちょっとだけ許せるようになる。


そんな心境になってはじめて、私は気付いたのである。

「言葉はそこまで万能じゃない、言葉には限界がある」

ということに。



言葉というのは、私達が思っているよりもずっとあやふやなものだ。


まず、私達は思っていることをうまく言葉にして伝えられないことがある。

●言葉自体が上手く出てこなかったり
●心ならずも本心と違うことを口にしてしまったり
●思ったことを明け透けに喋ることが憚られたり


個人の資質や状況など様々な理由があるが、普段私達は思っていることをそのまま言語化しているわけではないのである。
思っていることを言葉で伝えるのが苦手な人はいくらだっているし、思っていることがすんなり言葉にならないこともいくらだってある。
また、多くの人は必要に迫られれば建前も言うし、多少の嘘もつく。

人が言っていることと思っていることは、ズレている場合がある。
いや、むしろズレていて当たり前なのかもしれない。


だとしたら、人の言葉をそのまま鵜呑みにしたり、過剰に受け止めたりする必要なんてないんじゃないか。

そう思うようになった。


もうひとつ言えるのが、言葉は「答え」そのものではないということだ。

ビジネス書や自己啓発本、スピリチュアル本に書かれていること、それ自体が重要なのではない。
その内容を、体験を通して身を以て理解すること、それこそが重要なのだ。

本に書かれている言葉に答えを求めるのではなく、自らの行動や体験を通じて答えを見出していく。
本はそのためのガイドであり、書かれていることはいわゆる方便に過ぎない。

結局のところ、人生において大切なことは言語化できないのだ。
言葉はあくまでも方便であり、答えそのものではないのだから。

このことに気付けなかったときの私は、本に書かれている内容と至らない自分を比較しては落ち込んでばかりだった。
本に書かれた言葉を「ガイド」ではなく「価値基準」として受け止めてしまっていたのが、その原因だったように思う。
だからこそ私は、言葉に振り回されて縛られてしまったのだ。

大切なのは「モノサシ」(価値基準)ではなく、「コンパス」(目標への道しるべ)なのだ。


と、このように、言葉は決して万能のツールではない。

言葉はあくまでも、高度な知能を身に付けた人間がコミュニケーションのために用いる手段であり、それ以上のものではない。

人は思いの全てを言葉にできないし、その思いも移ろいゆくものだ。
また、人生において本当に大切なことは言葉にできず、それを伝えるための方便として言葉を使っているに過ぎない。

自分、そして他人――人間という生き物の至らなさを受け入れた上で、言葉の限界を知ったとき、私は言葉に振り回されることがぐっと少なくなり、生きることが楽になったように思う。

そして、人間の至らなさと言葉の限界を知ってはじめて、言葉の持つ力と意味を理解できて、真に言葉を上手く大切に使うことができるのではないか…と思う次第である。(※4)


脚注

(※1)ザインと関わったことのない方に分かりやすく説明すると、カタカナ表記の「コトバ」は「嘘偽りない本心からの、命を懸けた本気の言葉」という意味合いである。

(※2)また、ザインの元会員の方々には「アートマ言葉」「ブッディ言葉」「マナス言葉」といった分類があるじゃないか! と突っ込まれるかもしれないが、話が煩雑になるので今回は割愛した。

(※3)些末なことであるが…小島露観の尊称は「御上」「総帥」「軍帥」など、コロコロ変わっている。

(※4)至らない自分を鞭打つことがなくなり、言葉への過剰なこだわりがなくなれば「アファーメーション」や「きれいな言葉を使うよう心掛ける」といったことを無理なくできるようになり、効果を上げられるようになる。

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