哲学は幸せを与えない

哲学に幸せを求める人や、幸せのために哲学を求める人は、早々にこの場から去るべきだ。哲学は決して人を幸せにするものではないし、そもそも幸せを求めている人は哲学に触れるべきではない。
哲学を実践していく中で、幸せと思える瞬間は限りなく少なく、あらゆるものを批判対象にするという点で、これまでに身に着けてきたあらゆるものの価値を疑わなければならないことになる。そこに価値などなかったのに、そこに意味などなかったのに、すべてが思考の対象になったとき、あなたは本当に幸せなのだろうか。
付け加えておきたいのは、この文脈から語ることは、決して「哲学を持つこと、実践することは不幸せであることだ」ということではない。なぜなら、そもそも哲学するなら「幸せは何なのか」と一度は問うべきであるし、「幸せとは存在するのか」とも問うべきであるからだ。つまり、哲学に幸せを求めてやってきた人間に対して、その幸せというものを疑わせ、打ち砕き、分解するように仕向けさせるのが哲学であって、「これが幸せですよ」と答えをくれるものが哲学であってはならないのだ。つまり、哲学は幸せを与えない。不幸せすら与えない。哲学は幸せを打ち壊す。そして、あなたは、わたしは、自己の中で打ち壊された欠片を吟味し、さらに分解し、何か別のものを生み出すか、生み出せずにこの世界を漂流する。例え生み出されたその何かが幸せであるかもしれないが、果たしてそれはもう幸せと呼べるものなのだろうか。それは、幸せを求めていたあなたにとっての幸せのままなのだろうか。何度でも疑うことを思い出させ、果たしてその状況が幸せだと思えることなのだろうか。幸せだった頃とはどんな状況だったのだろうか。幸せだったあの頃はもはや、哲学の中で言語へと分解され、歪な何かに姿を変えるだろう。
それでもなお、幸せと呼びたいのであれば、それがあなたの哲学なのかもしれない。そうして、あなたは哲学の中に自己を持ち、その中で幸せを見つけることとなる。最後には、その哲学こそがかつての幸せからあなたを隔絶し、あなたの中で血を巡らせる存在となる。
あなたが幸せであることを願っているが、こうして哲学は幸せを与えないのだ。幸せでありたいのなら、これを読んだ記憶を消していただきたい。もしももう戻れないというのならば、哲学する者同士として、哲学していただきたい。私はせめて、仲間が欲しいのだ。

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