【国際バカロレア】娘の宿題で感じた日本の教育とIB教育の違い(後半)

3月にIB PYP(国際バカロレアの初等教育)を卒業する娘は、昨年終わりからIB PYPの目玉である卒業発表、PYP Exhibition(PYPX)に取り組んでいます。

前半では、PYPXが、生徒自身がテーマをみつけて探究するプロジェクトであること、テーマを見つけること自体が難しくも貴重な経験であること、そして冬休みの宿題の内容について触れました。

後半では、知識重視型の教育で育った親(私)と娘が、どのように、この探究型と言われる学びに取り組んでいったのかを記載していきたいと思います。
子どもたちがIBカリキュラムで学ぶにあたり、IBについて調べ、理想像やカリキュラム構成について知識を得たものの、実際にIB教育を受けたことがない身としては、腹落ちする感覚がありませんでした。しかし娘の宿題を一緒に取り組む中で、知識重視型と探究型の取り組み姿勢の違いについて理解を深めることが出来たので、忘れる前にしっかりと記録しておきたいと思います。

立ちはだかった壁


スライドを見てもどのように取り組んで良いかわからない内容であったことは前半で述べました。IBの教科横断型スキルを知り、私は勘所を得ましたが、娘はかなり大きな壁であったようです。

~第一の壁:指示がない


80枚以上に及ぶスライドですが、指示が明記されていません。概念を説明するもの、評価軸らしきものをリストアップしたもの、テンプレート、図、質問形式の文がリストアップされているものと一枚ずつの形式や内容が異なるものでした。
娘が馴染んできた勉強法というのは、必ず質問がありました。この式の答えは何ですか?あなたはどう思いますか?これを使って○○をしてみましょう、等です。それらがほぼないので、娘としては、「これって、何をやるの?」というのが各スライドごとに発生する課題でした。PYPXは各自が設定したテーマにつき探究を深めていくので、スライドに掲載されていることは生徒それぞれの探究のために活用するもの、そしてPYPXの主旨から脱線しないように導くものであり、質問に回答すればゴールにいけるという線路は引かれていません。そうはいっても私も娘とほぼ同レベルでわからない。私も普段使わない脳みそ部分を絞って、PYPXの本来の目的、娘の設定したテーマ、目の前のスライド内容を行き来しながら、そのスライドの活用法を娘と一緒に考えました。

娘の口からよく出た言葉は、「これって合ってる?」と、「みんなもこうやっている?」でした。

日本の教育では、設問と回答という形で勉強を進めていくため、多くの場合、そこにはたった一つの答え、あるいは期待される回答の範囲があります。そういった教育を受けてきた娘にとって、自分のやっていることは合っているのか、周りと違っていないかを心配するのは自然なこと。自分の勉強のために、手元の素材を活かし自分で設問し、思考を深めるという形式には慣れていません。設問への回答が、答えではなく、次なる疑問である場合も多く(むしろそれがdeep diveと言われるPYPXの狙いであったりもするわけですが)、指示がない、答えがない、さらには疑問が次々に出てきてしまうという事態に、まず慣れる、ということに一定の時間を要しました。

~第二の壁:何を聞かれているのかがわからない


例えばかけ算であればかけ算の問題、国語であれば教科書に掲載されていた文章に関する問題、過去に習った単元や漢字を活用することは求められますが、基本的に、習ったことについて質問(テスト)されるのが知識ベースのカリキュラムです。ある程度知識があることについて聞かれます。
一方、PYPXでは自分の興味からテーマを設定するので、生徒は一定の知識や興味があるにはあるでしょうが、むしろ探究をしていく中で知識を得ていくという方針です。知識がある中で、さぁ確認しますよ、とその知識について聞かれれば、何を聞かれているのか悩むこともないですし、答えも出せます。しかし知識がないことについて、概念的な質問を投げかけられるのがPYPX。そもそも何を聞かれているのかがわからない、という状況に度々陥りました。

娘のテーマは、医療とコミュニティの発展についてでした。
"what could you define?" スライドをめくると突如現れる質問。え、deineって何?定義か。医療とコミュニティの発展における定義ってなに?え、そもそもなにについての定義?
"name and list different types of forms?" ・・・。医療とコミュニティの発展の、、、フォーム???
始終こんな感じです。

何を聞かれているのかわからず、娘は黙り込んでしまうシーンが度々ありました。グローバル社会において、何も発言しないことは何も考えていないことと同じと見なされる、とはよく聞くことです。何をきかれているのかわからないのであれば、そう伝える。質問について自分の解釈はこうだが、そういうことを問われているのか?と確認する。この部分はわかるが、そのあとにどう考えたら良いのかがわからない。そういった反応がないと、やはり思考が停止しているように見受けるのです。
知識ベースの教育では、想定範囲の質問が出されますし、求められているのは答えなので、質問者に対して質問で応えたり、自分の思考状況を述べて方向を導いてもらうようなやりとりをするシーンはほぼ見られなく、また歓迎されない風潮があるでしょう。日本においては、見られたとしても高等教育で行われる学習のように感じます。
幼い頃から、わからなくてもよいということ、そして周りの協力を求めて、解のない問題に自分なりに答えを出していく、という訓練をしてきた方々にしてみると、黙り込んでしまうという行為は、真剣に取り組んでないように映るのでしょう。

娘が黙り込んでしまったとき、実際に彼女の思考は停止していたと思います。答えへの糸口が全く見つからず、でも正解を答えられないことにはプライドが傷つくという思いで、ちょっとしたパニック状態だったのかもしれません。わからないことが悪いことではないことを理解させ、何がわからないか何がわかるかを丁寧に拾い上げていく作業を一緒にしていきました。知識ベースで発動する脳みその、可動域と発動方法を広げていくような作業でした。

~第三の壁:もう、やめたい!

聞かれていることがわからない、質問に答えようとすればするほど次の質問が生じる、自分の知識のなさや答えられないもどかしさを感じる、スライド1枚に1時間もかかり到底終わらせられないとプレッシャーを感じる。。。こちらも、問いかけをしても黙ってしまう娘にイライラしたり、投げやりな態度に腹を立てたり、お決まりの”宿題による親子ゲンカ”がありました。いままでであれば、私がなだめてやらせるか、あるいは放っておくか、娘はふてくされてやりつづけ、そのうちイライラが消えるのを待つかという過ごし方だったと思いますが、IBプログラムはこの点も教育の柱になっています。

自己管理スキル: 時間・作業を効果的に管理するスキル、自己動機付けやレジリエンスに関するスキル

悔しかったり投げやりになってしまう気持ちをどうコントロールしていくのか、ということにも向き合い、スキルを磨きます。実際に宿題のスライドにも項目があり、今、自分がどう感じているのか、感じやすいのか、そしてこの宿題が終わるころにはどんな自分になっていたいのかを一緒に考えました。このスライドを行ってから、娘の気持ちが萎んでしまう回数は格段に減りました。

たまたま冬休み明けに娘の教室を訪れた際、教室の後ろの壁に大きく張り出されていたのはlearning pitという図でした。これは、ジェームズ・ノッティンガムという教育者によって開発されたもので、学習者が困難や挑戦に直面する過程を視覚的に示した図です。
新しいことを学ぶときに、最初は理解できなかったり、問題を解決できなかったりし、解決策が見つからず、困難や混乱に直面するが、この過程を乗り越えることで、深い理解と新たなスキルを獲得する、という学びの旅路が図になっています。その中で問題に取り組み、失敗と試行錯誤を繰り返すことで、最終的には問題を解決できるようになり、この過程を経ることで、学習者は大きく成長し、理解が深まる、となるのです。その図に、IBの各スキルがわかりやすくちりばめられていました。子どもたちと一緒に作った様子がうかがえる図でした。
まさに、娘の「もう、やめたい!」は深い学びへの旅路における、正しい旅順であり、その過程を経て自分がどこにいけるのか、が視覚化されているのですね。自分の中の不安やパニックを客観的に捉え、認められることは、大きな安心につながります。大きな安心は、学習のモチベーションになります。「探究する人」「心を開く人」「挑戦する人」「振り返りができる人」などのIBの学習者像の要素がこういったところにも現れていることを感じました。

点が線になる、アハ体験


さて、出だしから躓いていた娘(と母)でしたが、もがきながらもひとつずつのワークに懸命に取り組むと、だんだんと慣れてきます。一見わからなく思える問題も、落ち着いて問いを細分化してみたり、似た問いや事象と比べてみると、わかってくる、ということがわかります。これが娘の自信の形成につながっていっている様子が、端からでもよくわかりました。質問に対して沈黙してしまうシーンは、減ったものの、聞けば何か口から言葉が出る、となるにはまだ練習が必要です。とはいえ、何を聞かれているのかわからない問題に取り組み、自分なりの解を出せるようになったことは、大きな成長であり、こういう形の勉強の仕方があるということを体験できたことに、私はとても嬉しさを感じました。はじめは、関連性が見えなかった問いの数々やフォーマットも、自分なりの解を求めて進めていくと、点が線につながってくるのですね、娘の「あぁ!」という腑に落ちた顔を何度も見ることができました。娘の学ぶ喜びを感じている姿に、私も嬉しく感じました。

多様性と自分の意見の確立


PYPXの発表は3月ですので、取り組みはまだまだ続くのですが、(そしてなんと、休み明けに娘はトピックを変えました・・・)娘と一緒にワークを行い、実際の教育に触れることができたのは、私にとっても貴重な経験でした。
娘のトピックは、私が大学院で学んだ分野であり、「これって大学院でやることだよぉ(泣)」と思いながら取り組んだのは私の思い出のひとつです。知識ベースの学びが悪いとは全く思いません。しっかりと基礎となる知識を得て、豊富な語彙や思考のルートを作ってから、複雑な課題に向き合う、という順序は理にかなっていますし、生徒を一定以上の水準に導く、大きな利点があります。
宿題につきあった4週間だけでも、指示を待つのではなく自分から探究していく、解決の糸口が見えない課題に挑戦する、そしてそういった過程自体を俯瞰的に眺め、自分の感情と行動を管理し、楽しむ、というIBの学びの過程を理解することが出来ました。正しい答えを回答する、と言うこと以外の学びのあり方を、娘とそして私自身が経験できたことを、とても嬉しく思いました。

インターナショナルスクールの印象として、個性の違いを大切にする、というものがあると思います。実際、様々な国籍やバックグラウンドの生徒があつまるので、多様性に富み、お互いを尊重する雰囲気があります。
今回、娘の宿題を通じて、多様性への受容は育まれることでもあるということを感じました。泣いて苦労して、自分なりの解を生み出す経験は、自信と謙虚さをくれると思います。そして同じように生み出されたと思われる他者の意見を、尊重するようになるのではないでしょうか。たとえ自分の考えと違っていても、わからない問題に対して取り組んだように、理解・共感できることとそうでないことを丁寧に精査して返せるのではないかと思ったのです。
自分の意見を確立することが、他者を受け入れ個々人を尊重する、多様性につながっているのではないかと思いました。

これから娘の学校は、もう少し知識ベースの学びになっていきます。知識重視型の教育から移ってきた娘が、限られた時間とはいえ、IB型の学習を経験できたことはとても良かったと思います。

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