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【連載小説】地獄の桜 第二十八話
そして僕は『何でもない日常を見つめる』ことの意味を考えはじめた。公園でも、アパートでも、そして街中に佇んでいても。
僕の住む町の隣に大きな川があった。物思いをする場所を探し歩くうちに僕はその川へたどり着いた。
でもいざそこに座り込んでみると、僕は物思いをするより、川を見つめてぼうっとする、そのゆるやかな時間を久しぶりに持ったことに、何か深い感慨を感じたのだった。あの忙しない日々は何だったのだろうか、それは結局僕にしても、さくらにしても、お互いをどこかで擦切らすだけの時間となってしまっていたのではあるまいか。
全てを放り投げて、川をひたと見つめていた。昼時が近づいてくると、みなもに浮かぶ小さな波が光を反射してきらきら、ぴかぴかと輝きだす。そしてほとんど音もなく静かに流れてゆく。この何でもない景色が僕をこれほどに穏やかな満ち足りた心にしてくれるのは、不思議としか言いようがなかった。
本当に僕が求めていたものは、高級酒を飲んでいるさくらでもなく、ラフロイグにあうツマミでもなく、喫茶店のおじさんに愚痴をこぼすことでもなく、ただ一つ、このみなもの輝きが、ただ流れてゆくということ、それだけだったのだ。
部屋に戻り、僕は防潮堤に囲まれた何の変哲もないその川の輝きを紙面に再現しようとルーズリーフを広げた。僕の画才ごときでそれが一発で上手くできる筈もなかったのだが、それでも僕は次の日にはスケッチ帳を買い、それに鉛筆、色鉛筆などをリュックに入れて防潮堤下の歩道へまた向かった。
半日もスケッチに向かう日々が、いくつも、いくつも、気の遠くなるような時間の流れの中で、過ぎて行った。その間に貯蓄はどんどん切り崩れて行った。
部屋の中のものを整理し、アパートを引き払った。手元に残った荷物は、二~三冊の本と、リュック、今着ている服と、CD一枚、文房具、財布、ノートパソコン、さくらにあげたはずのピンクの手鏡、それだけとなった。
ネットカフェを寝床にしながら、ひたすらに川に行く生活を続けた。いつの間にか金がなくなっていた。面倒くさい仕事はしたくなかったが、仕方なく日雇いのバイトなどをしながら、ネットカフェにいられる金を維持した。
雨の日でも、寒くても、どんな日でも川に行ってスケッチをすることだけは止めなかった。何回も書くうち、少しずつ、僕の指が川の光るさまを鉛筆で追うのに慣れていくような、そんな実感がいつしか出てきた。