【連載小説】地獄の桜 第十七話
まあでも私立なのだし、あといずれにせよ、今の時代、大学なんてお金のない家からは金持ちの道楽としか思われないだろう。ともかく、僕は頭痛という苦しいことからいち早く逃げるためにロキソニンを飲んだ。そしてこの憂鬱を吹き飛ばすには、外の空気を吸うのが一番だということを僕は知っていた。
しかし朝の景色は、空気は、夏の重苦しい魔力に取りつかれたように浸食されていた。外に出るとまず眩しかった。そして生温い塩っ気のある風がむわっと湧き立つように吹き上げた。
こんな薄汚れた町が、夏の照明に当てられて偽りの華やかさを演じていた。僕の住むアパートの灰色が嘘のように白みがかって輝いていた。
こんな晴れた日には本もパソコンも放り投げて、タバコと財布だけを持って出かけるのが良い。このまま僕という存在が夏の強い光の差す方へ舞い上がって、溶けて消えて行ってしまうことなどを妄想しながら、アパートを後にした。
僕みたいな人間は、このアスファルトに覆われた固い地を這って暮らすにはあまりに脆すぎる。でも、だからって僕には帰る場所なんてありはしないのだ。僕の故郷は例えて言うならば、人々の見栄と欲望と金で練り上げた、美しいハリボテの城だった。
最初からそんなものは、幻想でしかなかったのだ。だから僕はこうして、小説という形式の中で、主人公という世を忍ぶ仮の姿を通してしか生きることが出来ないんだ。
都落ち。良い言葉……かも知れない。でも僕にはその言葉がちょっと勿体ない気がする。だから僕は「自分には故郷がない」という言葉を小説で幾度となく使ってきた。
「○○さん、あなたの小説は『故郷がない』というテーマがよく使われますが、これは何か一貫したメッセージがあるのでしょうか?」
有り体に言って、そんなメッセージ性は、ない。明確なメッセージを託せる小説家は幸福だ。対して僕は、小説家としては不幸極まりないだろう。いつももやもやする訳の分からない感情が筆の先から滲み出た結果に過ぎない。だからこの小説も、自分の生活を書いたようでいて、その実自分の頭の中にこびりついている赤の他人の話なのかも知れない。
アスファルトの上を歩いているとそんなことを思う。
しかし今日の日差しの強さはじきに僕のそんな気の迷いも溶かしていく。
僕は小説家としては不幸でも、心の闇を外界に取り払った今この瞬間では幸福だという直観が突然僕を貫いた。きっと僕の書く作品は小説でも詩でもなく、実は凍らずに溶けて流れていく言葉の連なりなのだ。
「なんだ、昨日の若造じゃないか!」
「あ……おはようございます」
「おはよう」
今一番会いたくない昨日のおじさんにバッタリ会ってしまった。金を返せ。クソッ。
僕の『今この瞬間の幸福』は、こうして下らない出来事に脆くも崩れ去った。
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