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【連載小説】地獄の桜 第二十一話

 しかしそのうち、いつの間にか僕は夢の中にいた。夢の中にいた方が、もう少しは気分が楽だったような気がした。夢の中の僕は確か、なぜかさくらがかつて一人で住んでいた部屋に寝転んでいて、寝息を立てていた。
 部屋は静かだったが、時折話し声がした。一組の男女の話し声。耳を澄ますと、さくらが誰か部屋にいる男に小声で何やら話している、そんな様子だった。
 いけないものを聞いてしまった!
 僕は思わず微かに開けていた目を、すぐに閉じた。僕はどうすればいいのか良く分からなかった。ぼんやりとしたもの淋しさが僕の心を掠めていくようだった。
 二人は僕の存在にも気づかず、何らかの情事を始めているらしかった。そして二人は仲睦まじく声を合わせ、笑ったり、どうやらキスをしたり、ちょっかいを出したり……その奥で、何でこんなことになっているのかも分からずに困惑している僕を置き去りにして……。

 僕は早朝に飛び起きた。悪夢を見て抱いた暗い感情の余瀝をぬぐいとるかのように歯を磨いて口をすすぎ、ウォッカの瓶を空けた。
 つかの間の冷ややかな安堵のような何かが僕の心の中を伝って満たしていった。けれどもその夢の記憶がふとよみがえったように時折身震いをし、くしゃみが出た。
 だから、そんな曖昧な心の霧を吹き消したくなって、いたたまれず僕は部屋を飛び出した。
 エントランスフロアへ降りると、あたり一面の海が、その日の黎明の光を、その身に湛えていた。

 気怠い気分と夏の強い日差しが奇妙なコントラストを作る。手荒なようであり、また優しいようでもある海のさまをここからは腰を据えて眺めることが出来た。
 それはエントランスフロアのカフェスペースの窓際のことだ。コーヒーのアメリカンを注文した。飲みつつ、海を見遣りつつ、魂の孤独という傷はどうやって癒され得るか、そんなことについて暫し考えていた。

 ……眩い光に照らされて前が見えない位の景色だ。それはさくらとの出会いのようでもあった。僕はさくらの眩さを直視できないどころか、自分の影さえも掴めなかった。
 そしてついに太陽にまで肩透かしを食らった時、初めて僕はひょろ長い貧相な影を持っていることに気づくのだろう。その影とは何か。何に僕は気づき、僕は次に何に対して怯えなければならないというのだろう……そこまで思いつめた時だった。
 さくらは向こうから降りてきた。ピンクの薄いカーディガンを羽織る姿の、整った微笑に僕は理性を失ったのだろうか、いや、それとも今しがたの果てなく暗い思索は、むしろ狂気だったのかもしれない。
 男とは、こんなにも簡単な存在だと思う。たったそれだけで、僕は何を悩んでいたかすっかり忘れてしまったのだから。

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